2019年5月28日火曜日

『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』の中で食べたい物は?

ブータンの卵酒の話を読んで、行ってもいない『未来国家ブータン』の旅を懐かしく思い出した。コンゴでゴリラを食べた話を読んで、『幻獣ムベンベを追え』を読んでみようかという気になった。
『辺境メシ』を読んだからといって、他の本への興味が湧くことはあっても、他の本がつまらなくなることはなさそうだ。すでに読んだ本の情報を補完してくれるし、まだ読んでいない本には興味をそそらせて、読んでみようかなという気にさせてくれる。だから安心して手にとって良いと思う。

食で文化を知る

食べ物に重点を置いている本を読む傾向がある気がするのは、私の旅行も食べ物に重点を置いているからかもしれない。現地の文化を知るには現地の食べ物を食べないとわからない、という考え方が頭にある。もちろん、他にも現地の文化を知る手段はあると思う。現地のヤバそうなものを食べたからと言って、現地の文化を深く知れるかといえば、その時時に応じて答えは違うのではないかと思う。
文化を知りたいのであれば、この本より先に読むべき本があるはずだ。

食べてみたい料理

20カ国以上のさまざまな食材や料理の記録となっているが、私が一番食べてみたいのは中国南部の広西チワン族自治区に住むトン族の羊の胃液料理、ヤンビーだ。

厨房のポリバケツに入ったそれは、黒っぽい緑色をしていて、本当に草食動物が消化している最中の草という感じ。
高野秀行『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』文藝春秋,2018,199頁

ヤンビーはヤギが消化することで調理をしている。この胃液をベースに、草をろ過して具材を入れ調理して完成する。胃液を食べているのか草を食べているのか、消化の状態によって味も変わるだろう。ヤンビーを出す店は市内にいくつもあるあらしい。いろいろな店で食べてみたい。

2019年4月22日月曜日

『民主主義の死に方』を読んで、死にそうな理由がわかった気がする。

地元の図書館の新刊コーナーに置いてあってふと目にとまったので、私の今の気分とあっていたのだろう。今まで政治の本はほとんど読んだことがない。恥ずかしい話だが、政治と自分自身の関連というかつながりをあまり感じていなかったのだ。この本を手に取ったということは、ようやく政治が自分へ影響を与えていることを実感できるようになってきたということだろうか。

民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道
スティーブン・レビツキー ダニエル・ジブラット
新潮社

政治のことがわかってないから読んで見る

読む決め手となったのは、ペルーのアルベルト・フジモリが、アドルフ・ヒトラーや、ウゴ・チェベスと並べられている記述を見つけたことだ。日系人として親しみを持っていたフジモリが独裁者として語られていることに驚いた。過去に報道で観た記憶はあるが、独裁者として強い印象は残っていなかった。同じアジア人として知らぬ間にバイアスがかかっていたのだろう。
2019年現在の世界の政治はとても不安定に思える。なんの知識も持たずに報道やネットの意見を目にしても正しい判断が出来るようには思えない。正しい判断の一助になればと思い、手にとった。

アメリカにおける選挙制度の問題点

本書のはじめでは、クーデターで権力を得たのではなく、正当な選挙で選ばれた人々がどのようにして独裁者になっていったのかを、各国の独裁者を見ていくことで共通点を見出している。政治の世界がエリートたちによって腐敗し、庶民のものではなくなっているように人々が感じているときに、庶民の手に政治を取り戻そうと政界の外からやってくるものが独裁者になる傾向がある。
アメリカでは、大統領予備選挙に拘束力がなかったことが、そのような人々の当選を防いでいたようだ。各党が予備選挙の結果と別の視点も含めて最終的に大統領候補を選ぶことで、大衆に人気があるだけでは大統領候補になれない仕組みとなっていた。しかし、1972年に予備選挙の結果に拘束力がともなうようになり、人気だけで大統領候補となることが出来る制度へと変わった。
ドナルド・トランプは、この制度変更がなければ大統領候補になることもなかったのだろう。

アメリカだけでない政治の問題点

中盤から後半にかけて、予備選挙の更拘束力だけでなく、相互的寛容や組織的自制心がなくなっていくことで、民主主義に危機が迫っていることを見ていく。
不寛容になることで政党がライバル関係から敵対関係へ移行する。敵対関係にある政党への攻撃が始まる。ライバルから敵になることで攻撃が強まる。本来は国を良くするようにお互いに敬意を持たなければならないはずなのに、敵とみなすことで自制心がなくなってしまうということだろう。考え方の違う人々の対立が進み、社会の分断が起き、二極化が進んでいく。
この二極化は、日本を含め世界的な流れのように思える。そのような流れは最近はじまったものではなく、1970年代から徐々に進んでいるようだ。
ドナルド・トランプの当選は、流れの結果でしかないようだ。

民主主義を脅かしているもの

不寛容こそが民主主義を脅かしているように思える。

人類の歴史のなかで、多民族の共存と真の民主主義の両方を成し遂げた社会はほとんど存在しない。
S・レビツキー、D・ジブラット『民主主義の死に方』, 新潮社, 2018, 275頁

この言葉を読むと、寛容でなければ民主主義を実現することが出来ないことがよくわかる。

2018年7月25日水曜日

旅するように『都市と都市』を読んで

チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』を読み終えて、同じように街を舞台としたの『都市と都市』を読み始めたら、まったく違う切り口で驚いた。

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)
チャイナ・ミエヴィル
早川書房
売り上げランキング: 93,173

なぜ旅行をするのか

旅行が好きだ。旅行先の地のものを食べたり、その土地の文化を感じることも好きな理由の一つだが、一番の理由は自分が住んでいる環境との違いを知れるからだと思う。生活している環境が当たり前になりすぎると改めて見つめ直す機会がない。旅行に行くと否応なく自分の世界と旅行先の世界の違いに対面することになる。
どちらの料理や文化が好みなのか優劣をつけるのではなく、今まで気にもとめずにいた事柄に対し、新しい視点を与えてもらえたとき、旅行をしてよかったと思える。
では、『都市と都市』では、どのような視点を与えてくれるのか。

『都市と都市』で描かれる視点

『都市と都市』の舞台である架空の都市、べジェルとウル・コーマは、物理的に隣り合っている。
国境を超えて、あちら側を見ることは違法になる。もちろん、国境を超えてもいけない。

訪問者は、最低限の概略、すなわち、建造物の標識、服装、アルファベット、マナー、怪しい人間の外見や身ぶり、義務の詳細ーそして、べジェル人の教官によっては、国の特徴として優れていると思われる点などーさらに、べジェルとウル・コーマ、及びその市民の差異を覚えることになる。

チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』ハヤカワ文庫SF、2011、127頁

にも関わらず、複雑に入り組んだ国境を知る術は、上記のようにあちら側を見るしかない。
べジェル人やウル・コーマ人は、あちら側を見ないようにしつつ、国境を超えないよう生活している。

その視点は『都市と都市』の外には存在しない

もちろん、この視点は『都市と都市』の外の世界には存在しない。まったく荒唐無稽な視点だ。
もし、べジェルとウル・コーマが存在するとして、私が二週間のトレーニングをして入国したとしても、べジェル人とウル・コーマ人のようにあちら側を見ないようにすることは出来ないだろう。
この視点を持ちたいのではない。
このような視点がありうること、別の思いもよらない視点が現実にもある可能性が、『都市と都市』を読んでいる間に感じていた面白さではないかと思う。
今、一番行ってみたい都市。

2018年1月22日月曜日

チェンマイで『謎のアジア納豆』を食べてきた。

農作業をしているときに点けているラジオから、日本だけでなくアジアの納豆のことも書かれた本があるという話が耳に入ってきた。納豆は日本固有の食べ物だという思い込みがあったが、私が知らなかっただけなんだと気付かされた。それが高野秀行さんの『謎のアジア納豆』との出会いだった。高野秀行さんの『未来国家ブータン』をちょうど読み終えたときで、ブータンと同じように私の知らない納豆を見せてくれるんだろうと、すぐに手にとった。

本を読んで二ヶ月後、タイの北部の都市チェンマイへお祭りを観にいくことになった。知り合いのタイ料理屋の常連さんたちがタイ周遊旅行をするというので私たちも便乗させていただくことにしたのだ。タイには一度行ったことがあるが、今回は周遊旅行ということもあってチェンマイ、スコータイ、パタヤをまわる。個人ではなかなか実現できない旅程である。
旅先で何をしようかなと考えているときに、ふと『謎のアジア納豆』を食べようと思いついた。

チェンマイ到着早々、私たちは市内にあるシャン料理店「フン・カム」に出かけた。

高野秀行『謎のアジア納豆 そして帰ってきた<日本納豆>』新潮社、2016、48頁

チェンマイ到着早々、私たちも Hearn Kharn へ出かけた。はじめてのチェンマイで相乗りバスの乗り方もおぼつかないが、堀の北にある市営競技場の近くで降ろしてもらい、妻と二人で歩いて店へ向かう。大通りから一本入った道は街灯も少なく暗い。いくつか交差点を過ぎると、長屋のようにいくつかお店が入っている建物に二軒だけ電気が点いている店があった。そのうちの一つがフン・カムだった。
テーブル席は四卓で私たちが最初の客のようだった。料理写真のついたメニューを見て悩んだ結果、納豆ペーストとタマリンドの葉のサラダを注文した。納豆料理をあてに飲もうと思ってきたが、アルコールは置いていなかった。それならばと、納豆に合わせてもち米を注文した。

奥の厨房からは炒めものを作っている音が聞こえてくる。しばらくすると注文の品が運ばれてきた。納豆そのものは日本の納豆と変わらない。納豆ペーストは、玉ねぎと香辛料と一緒に炒めた温かい料理で、日本の納豆パックを3パックは使っているのではないかという量だ。嬉しいのだが、納豆3パックは夫婦二人には少々手に余る。それでも美味しいので完食してしまった。
納豆でお腹も膨れてしまったが、チェンマイ最初の夜だ。屋台でシンハを飲みたい。私たちは店を出て、シンハの飲める屋台を探しに、まだ賑やかなチェンマイの夜の街へ戻った。

チェンマイ アパート日記。
なかがわ みどり ムラマツ エリコ
JTBパブリッシング
2017年9月2日土曜日

日本で『テヘランでロリータを読む』を読んで

読むきっかけ

自分の考えの源泉を辿っていくと、生まれ育った環境より遡れないのではないかという思いから、現在の日本とまったく違う価値観の世界への興味で手にとった。一歩外へ出てみなければ、今いる場所が見えないのではないかと思ったからだ。
テヘランでロリータを読む(新装版)
アーザル・ナフィーシー
白水社

ロリータとは誰なのか?

著者はイラン出身の欧米で教育を受けた英文学者で、欧米の影響を大きく受けた日本で育った私と条件は大きくは変わらないかもしれない。であれば、イランを見る視点も共感出来ることが多いはずだ。
『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにある。

アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』白水社, 2017, 53頁
チャドルやスカーフの着用が義務付けられたイランの一室で読むロリータは、女性たち自身のことが書かれているようにしか読めないだろう。もちろんその読みは敷衍することが出来て、男性女性を問わず多かれ少なかれどこに生きている人にも当てはまるだろう。

変わる日常

イスラーム革命後のイランでロリータを読む第一章に続き、革命の最中を描いた第二章、イラン・イラク戦争を描いた第三章と続いていく。既にイスラーム革命が起こって時間の経過した第一章と異なり、第二章、第三章は、徐々に変わっていく環境が描かれる。
女性はチャドルやスカーフを着用しなくてはいけないという規則がつくられ、女性の反対にもかかわらず、いかにして実施されたいったのかが描かれる。規則を守らなければ職場の入り口で看守に止められることから始まり、最後は鞭打ちのうえ牢獄行きになる。

理解の地平面

私はそのような変化を理解出来ないが、変化後の世界を求めている人々が少なからずいるということにも納得はいかない。この納得のいかなさは、私が生まれ育った環境で育まれた考えの結果なのだろうか。だとすれば、もし私がテヘランで生まれ育てば私もイスラーム革命後の世界を求め、今の私の考えを理解しないだろう。
私はイランで生まれた私のおかしな点は指摘することが出来る。
だけど、私は日本で生まれた私のおかしな点は指摘することが出来ない。
その指摘できない点はどうしたら可視化できるのだろう。
語れなかった物語: ある家族のイラン現代史
アーザル ナフィーシー
白水社
2017年6月3日土曜日

『ゼンデギ』でテクノロジーは負けたのか。

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)
グレッグ イーガン
早川書房
売り上げランキング: 141,542

イーガンの『白熱光』を読んだあとに、『クロックワーク・ロケット』を読み始めたら、思ったよりもハードなSFで、ちょっと気分転換に少し軽めのSFにしようと思って『ゼンデギ』を読み始めた。読み始めたところで、舞台がイランだということを知って少しイランについて勉強しようと思ったら、なかなかゼンデギに戻ってこれなくなってしまった。イスラム教やイランの歴史などはとても勉強になったけれど、結論から言えば『ゼンデギ』にはそれほど必要な知識ではなかったかな。

『ゼンデギ』で描かれる世界

テクノロジーは、イーガンの小説では低いほうのレベルにある。物語の舞台は2012年と2027年のとても近い未来だからだ。
物語の中心となる人物は、脳の活動をスキャンして、なんとか人間の一部の特性を抽出しようとしている。仮想ゲーム内のキャラクターにサッカー選手たちの特性を取り込んで、誰でもスター選手と対戦できるようになる夢のゲームだ。キャラクターはあくまでサッカー選手の技術を模倣したものであって、選手そのものではない。
ここではまだ、人間は完全にはスキャンされてデータとして生きていないし、グレイズナー・ロボットとしても生きていない。つまり、まだ人間が現実の生を生きるしかない世界を舞台にしているということだ。

つぎの一歩へ踏み出すきっかけ

まだ現実の生しかない世界で、主人公のマーティンは自分の余命が少ないことを知り、不完全なスキャンの自分を、残される身寄りのない息子への親代わりとすることを試みる。
もちろんマーティンにも友人はいて、息子の親代わりになるという約束もしている。けれど、オーストラリア生まれのマーティンにとって、異文化であるイランの友人のすべてを理解できていない不安があり、そこが親代わりとしてスキャンをしようという決意につながっている。舞台がイランである積極的な理由が他にわからなかったので、ここを納得できればイランのことを知っていなくてもこの小説は楽しめるはずだ。
単なるサッカーの技術から、人格の一部を切り取るような次の一歩を踏み出す理由としては納得できる。

テクノロジーは負けたのではなく

『順列都市』、『ディアスポラ』など、多くのイーガンの小説に登場するデータとしての人間の誕生のきっかけが描かれているのかと思ったが、そうではなかった。LPレコードのデジタル化と同様に、脳スキャンもうまくいかない。さらにイーガンお得意のよくわからない団体が出てきて、この脳スキャンプロジェクトへ妨害と警告をする。

もしなにかを人間にしたいなら、人間まるごとをお作りなさい。

グレッグ・イーガン『ゼンデギ』ハヤカワ書房、2015、549頁

今まで、イーガンの小説に登場するデータとしての人間には初期のバージョンがあり、その初期のバージョンにはなんらかのデータの抜けがあるのではないかと不安だった。その抜けは後世の技術で補完されるのかもしれないが、それでは補完前と後では、別のものになってしまう。
そんな不安はイーガンの小説内ではありえないことを、テクノロジーがそこまで進歩するまで人間をスキャンすることはゆるさない団体がいることを保証した小説なんじゃないかと思う。

2016年10月16日日曜日

グレッグ・イーガンの『白熱光』を読んで励まされた。

読み終えてからしばらく経つので記憶があいまいなのだけど、『ディアスポラ』の主人公ヤチマは<創出>によって形成された、親をまったくもたない市民で、たぶん今でも真理鉱山を掘り続けているはずだ。

「あなたはDNA生まれですか?」

グレッグ・イーガン『白熱光』ハヤカワ書房、2013、7頁

登場人物のラケシュへ投げられた上の質問で始まる『白熱光』は、『ディアスポラ』と兄弟のような話に違いない。あれだけ遠くまで行った『ディアスポラ』を越えられるのか?という疑問と不安は読み始めるとすぐに消えていった。

『白熱光』で描かれる2つの世界

『白熱光』は、奇数章と偶数章で異なる話が展開していき、それぞれの話がどう絡んでいくのかが物語としての楽しさだろう。先に上げたラケシュは奇数章の主人公でDNA生まれではあるが、『ディアスポラ』のヤチマ同様に、データとして存在するようになっており、世界に倦んでいる。

『まだなされていないことはない。まだ発見ずみでないものはない。』

グレッグ・イーガン『白熱光』ハヤカワ書房、2013、8頁

銀河円盤全体に広がった通信ネットワークで繋がった融合世界を、データ化された人々は自由に移動できる。だが銀河の中心に意思の疎通が出来ていない世界がある。それが孤高世界と言われるもので、どうやら別の文明が存在しているらしい。
奇数章のラケシュは誰も見たことのない孤高世界への冒険の旅へと出、偶数章ではその孤高世界の姿が描かれる。

2つの世界には大きな偏りがある

ラケシュは、孤高世界を冒険し別のDNAにより発展した種族を見つけることが出来、その種族は孤高世界の住人によって、ある目的のために設計された種族であるということまでわかる。
(たぶんラケシュに発見されたのと同じ種族の)偶数章の主人公ロイは、自分たちが住む星の外部すら見たことがなく、自分たちの星がどのように動いているのかも知らない。
知らないことだらけの偶数章では、いくつもの新しい発見と発見の間違いの発覚が起こり、絶望的な状況になりつつあるように見えつつも、世界は活気に満ちている。
ロイにとっての世界は、まだ知り得ぬ驚きに満ちている。

ここでの中心は偶数章の世界ではないか

読み始めたとき、発見されていない世界に住んでいるラケシュが物語全体の主人公となり、何も知らないロイたちを見つけて世界の一部に取り込むことがお話の中心だと思っていた。だけど読み進めていくと、どうもその読み方に違和感が出てきた。ラケシュの世界では、さまざまなテクノロジーを描いていてワクワクはするのだけれど、大したテクノロジーも出てこず、原始的な方法で世界を解明しようと右往左往しているロイの世界のほうが面白いのだ。
ほとんど神の視点で不死を生きるラケシュよりも、差し迫った種族の滅亡をなんとか回避していくロイに感情移入しやすいからかもしれない。

「本書の感想(レビュウ)の約半分は、次にあげる四つのうち、最低ひとつの勘違いをしている」

グレッグ・イーガン『白熱光』ハヤカワ書房、2013、409頁

もちろん、私もイーガンが言うようにひとつ以上の勘違いをしていた。中性子星とブラックホールの違い、降着円盤とは何か、ということなど『白熱光』を読むまで考えもしなかった。
ロイが物語のはじめ、何も知らなかったように、私も何も知らなかった。ロイが徐々に好奇心を持ち始めたように、私も好奇心を持ち始めた。

次はどのような世界が描かれるか

『順列都市』も『ディアスポラ』も『白熱光』も、すべて永遠の時間を手に入れている人々が描かれる。共通点は少ないかもしれないけれど、ビルを永遠に登ったり、真理鉱山を掘り続けたり、世界に倦んでいたりする。
『クロックワーク・ロケット』は、時間と速さの相対性が設定の中心にあるようだ。永遠の時間を手にしない人々がどのように描かれるのか、限られた時間をどのように生きるのか、そのあたりを気に留めながら読んでみよう。