2019年11月2日土曜日

テッド・チャンの「オムファロス」の面白く感じるところ

妻が図書館近くの美容院へ行くというので、私も図書館まで行って本を読みながら待つことにした。仕事が一段落ついたので、久しぶりに本を読む余裕が生まれていた。書架を眺めながら歩いているとSFマガジンが目に止まった。テッド・チャンの新作が掲載されているのをすっかり忘れていた。妻が戻ってくるまでの間に読めるだろうかと不安と期待が入り混じった状態で手にとった。

こんな話

小説は、ほとんど現実の地球と変わらない世界を舞台としていたが、主人公は考古学者で熱心な宗教の信者でもあった。主人公は遺跡やミイラの年代を調べるとともに、年輪がない最初の世代の木や、へその緒のない最初の人間を見つけているようだ。その最初こそが神が世界を創った証拠であると。なるほど。そうであれば、考古学者であり、信者であることは矛盾しない。
ある発見が大きな転機となる。天動説を体現している惑星<エリダヌス>の発見だ。どういうことか。主人公の住む地球は太陽の周りを回っている。天動説の惑星こそが、神が世界を創造した目的であり、地球はあくまで副産物に過ぎなかったということがわかるわけである。

面白く感じたところ

主への問いかけから始まる主人公へ、私は最初は共感出来なかった。だが、エリダヌスを見つけて神から見放されている状態に気づいたあたりから共感できるようになった。この気付きは小説の面白いところだ。主人公がずっと熱心な信者であれば、小説にこの面白さは生まれていない。そしてこの面白さはテッド・チャンは意識的に書いているはずだ。
年輪の始まりや、へその緒のない人間を神の証拠とし、地動説の惑星を神が地球を特別視していない証拠としているのもとても楽しい。杜撰な証拠を残してしまうのがとても人間らしい。そして文体もこの話にとって選びぬかれたものとなっている。結論が現代の人々の気持ちと相反しないのも良い。いくつものアイデアが整合性を保たれたまま小説をなしている。

妻の美容院から戻ってくる前に併録の「2059年なのに金持ちの子にはやっぱり勝てない。DNAをいじっても問題は解決しない」も読み終えることが出来た。もちろんこちらも面白い。

2019年6月19日水曜日

『ファクトフルネス』は補正をしてくれる。

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
ハンス・ロスリング オーラ・ロスリング アンナ・ロスリング・ロンランド
日経BP

補正方法を教えてくれる

『ファクトフルネス』というタイトルから、あなたはそう思っているかもしれませんが、事実はこうなっていますよと、教えてくれる本だと思っていた。だが、読んでみると、事実を教えてくれるということは当たっていたけれど、そこからもう一歩踏み込んでくる本だった。
事実はこうなっていますが、あなたをはじめ多くの人が事実と異なる認識をしています。認識の仕方を補正しないと事実を正しく見れませんよ、と事実からの補正方法を教えてくれる本だった。

両親の幼少期への補正

人は自分の経験したことを基準に考える性質があると思う。だから経験していないことは想像するしかない。両親から、5円玉を握りしめて買い物にいく思い出話を聞くたびに、自分が育った環境との差を感じながらも具体的にどれほどの差があるのかは想像もできていなかった。

わたしの母が生まれた1921年頃、スェーデンはいまのアフリカのザンビアと同じレベル2だった。母はある意味、ザンビア生まれと言えるだろう。
ハンス・ロスリング他著,『ファクトフルネス』,日経BP社,2019,75頁

このファクトフルネスの言葉に従えば、わたしの母が生まれた戦後間もない頃、日本はいまのアフガニスタンやマリと同じレベル1に属している。これは想像以上の貧しさだった。
わたしが生まれたとき、日本はレベル3にいて、わたしが物心がつく頃にはレベル4へ入る。30年ほどの違いで、ここまで差があるとは思ってもいなかった。

補正が必要な理由

『ファクトフルネス』の基準で考えると、わたしはレベル3とレベル4の世界しか知らない。今までの旅行で一番ギャップを感じたインドですらレベル2だ。両親の生まれた時の日本はレベル1である。考え方や生き方にも自ずと大きな違いが現れるだろう。
育った環境や、違いの程度を少しでも詳しく知ることが出来れば、寛容にお互いを理解しい合うことも出来るかもしれない。

2019年5月28日火曜日

『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』の中で食べたい物は?

ブータンの卵酒の話を読んで、行ってもいない『未来国家ブータン』の旅を懐かしく思い出した。コンゴでゴリラを食べた話を読んで、『幻獣ムベンベを追え』を読んでみようかという気になった。
『辺境メシ』を読んだからといって、他の本への興味が湧くことはあっても、他の本がつまらなくなることはなさそうだ。すでに読んだ本の情報を補完してくれるし、まだ読んでいない本には興味をそそらせて、読んでみようかなという気にさせてくれる。だから安心して手にとって良いと思う。

食で文化を知る

食べ物に重点を置いている本を読む傾向がある気がするのは、私の旅行も食べ物に重点を置いているからかもしれない。現地の文化を知るには現地の食べ物を食べないとわからない、という考え方が頭にある。もちろん、他にも現地の文化を知る手段はあると思う。現地のヤバそうなものを食べたからと言って、現地の文化を深く知れるかといえば、その時時に応じて答えは違うのではないかと思う。
文化を知りたいのであれば、この本より先に読むべき本があるはずだ。

食べてみたい料理

20カ国以上のさまざまな食材や料理の記録となっているが、私が一番食べてみたいのは中国南部の広西チワン族自治区に住むトン族の羊の胃液料理、ヤンビーだ。

厨房のポリバケツに入ったそれは、黒っぽい緑色をしていて、本当に草食動物が消化している最中の草という感じ。
高野秀行『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』文藝春秋,2018,199頁

ヤンビーはヤギが消化することで調理をしている。この胃液をベースに、草をろ過して具材を入れ調理して完成する。胃液を食べているのか草を食べているのか、消化の状態によって味も変わるだろう。ヤンビーを出す店は市内にいくつもあるあらしい。いろいろな店で食べてみたい。

2019年4月22日月曜日

『民主主義の死に方』を読んで、死にそうな理由がわかった気がする。

地元の図書館の新刊コーナーに置いてあってふと目にとまったので、私の今の気分とあっていたのだろう。今まで政治の本はほとんど読んだことがない。恥ずかしい話だが、政治と自分自身の関連というかつながりをあまり感じていなかったのだ。この本を手に取ったということは、ようやく政治が自分へ影響を与えていることを実感できるようになってきたということだろうか。

民主主義の死に方:二極化する政治が招く独裁への道
スティーブン・レビツキー ダニエル・ジブラット
新潮社

政治のことがわかってないから読んで見る

読む決め手となったのは、ペルーのアルベルト・フジモリが、アドルフ・ヒトラーや、ウゴ・チェベスと並べられている記述を見つけたことだ。日系人として親しみを持っていたフジモリが独裁者として語られていることに驚いた。過去に報道で観た記憶はあるが、独裁者として強い印象は残っていなかった。同じアジア人として知らぬ間にバイアスがかかっていたのだろう。
2019年現在の世界の政治はとても不安定に思える。なんの知識も持たずに報道やネットの意見を目にしても正しい判断が出来るようには思えない。正しい判断の一助になればと思い、手にとった。

アメリカにおける選挙制度の問題点

本書のはじめでは、クーデターで権力を得たのではなく、正当な選挙で選ばれた人々がどのようにして独裁者になっていったのかを、各国の独裁者を見ていくことで共通点を見出している。政治の世界がエリートたちによって腐敗し、庶民のものではなくなっているように人々が感じているときに、庶民の手に政治を取り戻そうと政界の外からやってくるものが独裁者になる傾向がある。
アメリカでは、大統領予備選挙に拘束力がなかったことが、そのような人々の当選を防いでいたようだ。各党が予備選挙の結果と別の視点も含めて最終的に大統領候補を選ぶことで、大衆に人気があるだけでは大統領候補になれない仕組みとなっていた。しかし、1972年に予備選挙の結果に拘束力がともなうようになり、人気だけで大統領候補となることが出来る制度へと変わった。
ドナルド・トランプは、この制度変更がなければ大統領候補になることもなかったのだろう。

アメリカだけでない政治の問題点

中盤から後半にかけて、予備選挙の更拘束力だけでなく、相互的寛容や組織的自制心がなくなっていくことで、民主主義に危機が迫っていることを見ていく。
不寛容になることで政党がライバル関係から敵対関係へ移行する。敵対関係にある政党への攻撃が始まる。ライバルから敵になることで攻撃が強まる。本来は国を良くするようにお互いに敬意を持たなければならないはずなのに、敵とみなすことで自制心がなくなってしまうということだろう。考え方の違う人々の対立が進み、社会の分断が起き、二極化が進んでいく。
この二極化は、日本を含め世界的な流れのように思える。そのような流れは最近はじまったものではなく、1970年代から徐々に進んでいるようだ。
ドナルド・トランプの当選は、流れの結果でしかないようだ。

民主主義を脅かしているもの

不寛容こそが民主主義を脅かしているように思える。

人類の歴史のなかで、多民族の共存と真の民主主義の両方を成し遂げた社会はほとんど存在しない。
S・レビツキー、D・ジブラット『民主主義の死に方』, 新潮社, 2018, 275頁

この言葉を読むと、寛容でなければ民主主義を実現することが出来ないことがよくわかる。

2018年7月25日水曜日

旅するように『都市と都市』を読んで

チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』を読み終えて、同じように街を舞台としたの『都市と都市』を読み始めたら、まったく違う切り口で驚いた。

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)
チャイナ・ミエヴィル
早川書房
売り上げランキング: 93,173

なぜ旅行をするのか

旅行が好きだ。旅行先の地のものを食べたり、その土地の文化を感じることも好きな理由の一つだが、一番の理由は自分が住んでいる環境との違いを知れるからだと思う。生活している環境が当たり前になりすぎると改めて見つめ直す機会がない。旅行に行くと否応なく自分の世界と旅行先の世界の違いに対面することになる。
どちらの料理や文化が好みなのか優劣をつけるのではなく、今まで気にもとめずにいた事柄に対し、新しい視点を与えてもらえたとき、旅行をしてよかったと思える。
では、『都市と都市』では、どのような視点を与えてくれるのか。

『都市と都市』で描かれる視点

『都市と都市』の舞台である架空の都市、べジェルとウル・コーマは、物理的に隣り合っている。
国境を超えて、あちら側を見ることは違法になる。もちろん、国境を超えてもいけない。

訪問者は、最低限の概略、すなわち、建造物の標識、服装、アルファベット、マナー、怪しい人間の外見や身ぶり、義務の詳細ーそして、べジェル人の教官によっては、国の特徴として優れていると思われる点などーさらに、べジェルとウル・コーマ、及びその市民の差異を覚えることになる。

チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』ハヤカワ文庫SF、2011、127頁

にも関わらず、複雑に入り組んだ国境を知る術は、上記のようにあちら側を見るしかない。
べジェル人やウル・コーマ人は、あちら側を見ないようにしつつ、国境を超えないよう生活している。

その視点は『都市と都市』の外には存在しない

もちろん、この視点は『都市と都市』の外の世界には存在しない。まったく荒唐無稽な視点だ。
もし、べジェルとウル・コーマが存在するとして、私が二週間のトレーニングをして入国したとしても、べジェル人とウル・コーマ人のようにあちら側を見ないようにすることは出来ないだろう。
この視点を持ちたいのではない。
このような視点がありうること、別の思いもよらない視点が現実にもある可能性が、『都市と都市』を読んでいる間に感じていた面白さではないかと思う。
今、一番行ってみたい都市。

2018年1月22日月曜日

チェンマイで『謎のアジア納豆』を食べてきた。

農作業をしているときに点けているラジオから、日本だけでなくアジアの納豆のことも書かれた本があるという話が耳に入ってきた。納豆は日本固有の食べ物だという思い込みがあったが、私が知らなかっただけなんだと気付かされた。それが高野秀行さんの『謎のアジア納豆』との出会いだった。高野秀行さんの『未来国家ブータン』をちょうど読み終えたときで、ブータンと同じように私の知らない納豆を見せてくれるんだろうと、すぐに手にとった。

本を読んで二ヶ月後、タイの北部の都市チェンマイへお祭りを観にいくことになった。知り合いのタイ料理屋の常連さんたちがタイ周遊旅行をするというので私たちも便乗させていただくことにしたのだ。タイには一度行ったことがあるが、今回は周遊旅行ということもあってチェンマイ、スコータイ、パタヤをまわる。個人ではなかなか実現できない旅程である。
旅先で何をしようかなと考えているときに、ふと『謎のアジア納豆』を食べようと思いついた。

チェンマイ到着早々、私たちは市内にあるシャン料理店「フン・カム」に出かけた。

高野秀行『謎のアジア納豆 そして帰ってきた<日本納豆>』新潮社、2016、48頁

チェンマイ到着早々、私たちも Hearn Kharn へ出かけた。はじめてのチェンマイで相乗りバスの乗り方もおぼつかないが、堀の北にある市営競技場の近くで降ろしてもらい、妻と二人で歩いて店へ向かう。大通りから一本入った道は街灯も少なく暗い。いくつか交差点を過ぎると、長屋のようにいくつかお店が入っている建物に二軒だけ電気が点いている店があった。そのうちの一つがフン・カムだった。
テーブル席は四卓で私たちが最初の客のようだった。料理写真のついたメニューを見て悩んだ結果、納豆ペーストとタマリンドの葉のサラダを注文した。納豆料理をあてに飲もうと思ってきたが、アルコールは置いていなかった。それならばと、納豆に合わせてもち米を注文した。

奥の厨房からは炒めものを作っている音が聞こえてくる。しばらくすると注文の品が運ばれてきた。納豆そのものは日本の納豆と変わらない。納豆ペーストは、玉ねぎと香辛料と一緒に炒めた温かい料理で、日本の納豆パックを3パックは使っているのではないかという量だ。嬉しいのだが、納豆3パックは夫婦二人には少々手に余る。それでも美味しいので完食してしまった。
納豆でお腹も膨れてしまったが、チェンマイ最初の夜だ。屋台でシンハを飲みたい。私たちは店を出て、シンハの飲める屋台を探しに、まだ賑やかなチェンマイの夜の街へ戻った。

チェンマイ アパート日記。
なかがわ みどり ムラマツ エリコ
JTBパブリッシング
2017年9月2日土曜日

日本で『テヘランでロリータを読む』を読んで

読むきっかけ

自分の考えの源泉を辿っていくと、生まれ育った環境より遡れないのではないかという思いから、現在の日本とまったく違う価値観の世界への興味で手にとった。一歩外へ出てみなければ、今いる場所が見えないのではないかと思ったからだ。
テヘランでロリータを読む(新装版)
アーザル・ナフィーシー
白水社

ロリータとは誰なのか?

著者はイラン出身の欧米で教育を受けた英文学者で、欧米の影響を大きく受けた日本で育った私と条件は大きくは変わらないかもしれない。であれば、イランを見る視点も共感出来ることが多いはずだ。
『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにある。

アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』白水社, 2017, 53頁
チャドルやスカーフの着用が義務付けられたイランの一室で読むロリータは、女性たち自身のことが書かれているようにしか読めないだろう。もちろんその読みは敷衍することが出来て、男性女性を問わず多かれ少なかれどこに生きている人にも当てはまるだろう。

変わる日常

イスラーム革命後のイランでロリータを読む第一章に続き、革命の最中を描いた第二章、イラン・イラク戦争を描いた第三章と続いていく。既にイスラーム革命が起こって時間の経過した第一章と異なり、第二章、第三章は、徐々に変わっていく環境が描かれる。
女性はチャドルやスカーフを着用しなくてはいけないという規則がつくられ、女性の反対にもかかわらず、いかにして実施されたいったのかが描かれる。規則を守らなければ職場の入り口で看守に止められることから始まり、最後は鞭打ちのうえ牢獄行きになる。

理解の地平面

私はそのような変化を理解出来ないが、変化後の世界を求めている人々が少なからずいるということにも納得はいかない。この納得のいかなさは、私が生まれ育った環境で育まれた考えの結果なのだろうか。だとすれば、もし私がテヘランで生まれ育てば私もイスラーム革命後の世界を求め、今の私の考えを理解しないだろう。
私はイランで生まれた私のおかしな点は指摘することが出来る。
だけど、私は日本で生まれた私のおかしな点は指摘することが出来ない。
その指摘できない点はどうしたら可視化できるのだろう。
語れなかった物語: ある家族のイラン現代史
アーザル ナフィーシー
白水社