2018年1月22日月曜日

チェンマイで『謎のアジア納豆』を食べてきた。

農作業をしているときに点けているラジオから、日本だけでなくアジアの納豆のことも書かれた本があるという話が耳に入ってきた。納豆は日本固有の食べ物だという思い込みがあったが、私が知らなかっただけなんだと気付かされた。それが高野秀行さんの『謎のアジア納豆』との出会いだった。高野秀行さんの『未来国家ブータン』をちょうど読み終えたときで、ブータンと同じように私の知らない納豆を見せてくれるんだろうと、すぐに手にとった。

本を読んで二ヶ月後、タイの北部の都市チェンマイへお祭りを観にいくことになった。知り合いのタイ料理屋の常連さんたちがタイ周遊旅行をするというので私たちも便乗させていただくことにしたのだ。タイには一度行ったことがあるが、今回は周遊旅行ということもあってチェンマイ、スコータイ、パタヤをまわる。個人ではなかなか実現できない旅程である。
旅先で何をしようかなと考えているときに、ふと『謎のアジア納豆』を食べようと思いついた。

チェンマイ到着早々、私たちは市内にあるシャン料理店「フン・カム」に出かけた。

高野秀行『謎のアジア納豆 そして帰ってきた<日本納豆>』新潮社、2016、48頁

チェンマイ到着早々、私たちも Hearn Kharn へ出かけた。はじめてのチェンマイで相乗りバスの乗り方もおぼつかないが、堀の北にある市営競技場の近くで降ろしてもらい、妻と二人で歩いて店へ向かう。大通りから一本入った道は街灯も少なく暗い。いくつか交差点を過ぎると、長屋のようにいくつかお店が入っている建物に二軒だけ電気が点いている店があった。そのうちの一つがフン・カムだった。
テーブル席は四卓で私たちが最初の客のようだった。料理写真のついたメニューを見て悩んだ結果、納豆ペーストとタマリンドの葉のサラダを注文した。納豆料理をあてに飲もうと思ってきたが、アルコールは置いていなかった。それならばと、納豆に合わせてもち米を注文した。

奥の厨房からは炒めものを作っている音が聞こえてくる。しばらくすると注文の品が運ばれてきた。納豆そのものは日本の納豆と変わらない。納豆ペーストは、玉ねぎと香辛料と一緒に炒めた温かい料理で、日本の納豆パックを3パックは使っているのではないかという量だ。嬉しいのだが、納豆3パックは夫婦二人には少々手に余る。それでも美味しいので完食してしまった。
納豆でお腹も膨れてしまったが、チェンマイ最初の夜だ。屋台でシンハを飲みたい。私たちは店を出て、シンハの飲める屋台を探しに、まだ賑やかなチェンマイの夜の街へ戻った。

チェンマイ アパート日記。
なかがわ みどり ムラマツ エリコ
JTBパブリッシング
2017年9月2日土曜日

日本で『テヘランでロリータを読む』を読んで

読むきっかけ

自分の考えの源泉を辿っていくと、生まれ育った環境より遡れないのではないかという思いから、現在の日本とまったく違う価値観の世界への興味で手にとった。一歩外へ出てみなければ、今いる場所が見えないのではないかと思ったからだ。
テヘランでロリータを読む(新装版)
アーザル・ナフィーシー
白水社

ロリータとは誰なのか?

著者はイラン出身の欧米で教育を受けた英文学者で、欧米の影響を大きく受けた日本で育った私と条件は大きくは変わらないかもしれない。であれば、イランを見る視点も共感出来ることが多いはずだ。
『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにある。

アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』白水社, 2017, 53頁
チャドルやスカーフの着用が義務付けられたイランの一室で読むロリータは、女性たち自身のことが書かれているようにしか読めないだろう。もちろんその読みは敷衍することが出来て、男性女性を問わず多かれ少なかれどこに生きている人にも当てはまるだろう。

変わる日常

イスラーム革命後のイランでロリータを読む第一章に続き、革命の最中を描いた第二章、イラン・イラク戦争を描いた第三章と続いていく。既にイスラーム革命が起こって時間の経過した第一章と異なり、第二章、第三章は、徐々に変わっていく環境が描かれる。
女性はチャドルやスカーフを着用しなくてはいけないという規則がつくられ、女性の反対にもかかわらず、いかにして実施されたいったのかが描かれる。規則を守らなければ職場の入り口で看守に止められることから始まり、最後は鞭打ちのうえ牢獄行きになる。

理解の地平面

私はそのような変化を理解出来ないが、変化後の世界を求めている人々が少なからずいるということにも納得はいかない。この納得のいかなさは、私が生まれ育った環境で育まれた考えの結果なのだろうか。だとすれば、もし私がテヘランで生まれ育てば私もイスラーム革命後の世界を求め、今の私の考えを理解しないだろう。
私はイランで生まれた私のおかしな点は指摘することが出来る。
だけど、私は日本で生まれた私のおかしな点は指摘することが出来ない。
その指摘できない点はどうしたら可視化できるのだろう。
語れなかった物語: ある家族のイラン現代史
アーザル ナフィーシー
白水社
2017年6月3日土曜日

『ゼンデギ』でテクノロジーは負けたのか。

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)
グレッグ イーガン
早川書房
売り上げランキング: 141,542

イーガンの『白熱光』を読んだあとに、『クロックワーク・ロケット』を読み始めたら、思ったよりもハードなSFで、ちょっと気分転換に少し軽めのSFにしようと思って『ゼンデギ』を読み始めた。読み始めたところで、舞台がイランだということを知って少しイランについて勉強しようと思ったら、なかなかゼンデギに戻ってこれなくなってしまった。イスラム教やイランの歴史などはとても勉強になったけれど、結論から言えば『ゼンデギ』にはそれほど必要な知識ではなかったかな。

『ゼンデギ』で描かれる世界

テクノロジーは、イーガンの小説では低いほうのレベルにある。物語の舞台は2012年と2027年のとても近い未来だからだ。
物語の中心となる人物は、脳の活動をスキャンして、なんとか人間の一部の特性を抽出しようとしている。仮想ゲーム内のキャラクターにサッカー選手たちの特性を取り込んで、誰でもスター選手と対戦できるようになる夢のゲームだ。キャラクターはあくまでサッカー選手の技術を模倣したものであって、選手そのものではない。
ここではまだ、人間は完全にはスキャンされてデータとして生きていないし、グレイズナー・ロボットとしても生きていない。つまり、まだ人間が現実の生を生きるしかない世界を舞台にしているということだ。

つぎの一歩へ踏み出すきっかけ

まだ現実の生しかない世界で、主人公のマーティンは自分の余命が少ないことを知り、不完全なスキャンの自分を、残される身寄りのない息子への親代わりとすることを試みる。
もちろんマーティンにも友人はいて、息子の親代わりになるという約束もしている。けれど、オーストラリア生まれのマーティンにとって、異文化であるイランの友人のすべてを理解できていない不安があり、そこが親代わりとしてスキャンをしようという決意につながっている。舞台がイランである積極的な理由が他にわからなかったので、ここを納得できればイランのことを知っていなくてもこの小説は楽しめるはずだ。
単なるサッカーの技術から、人格の一部を切り取るような次の一歩を踏み出す理由としては納得できる。

テクノロジーは負けたのではなく

『順列都市』、『ディアスポラ』など、多くのイーガンの小説に登場するデータとしての人間の誕生のきっかけが描かれているのかと思ったが、そうではなかった。LPレコードのデジタル化と同様に、脳スキャンもうまくいかない。さらにイーガンお得意のよくわからない団体が出てきて、この脳スキャンプロジェクトへ妨害と警告をする。

もしなにかを人間にしたいなら、人間まるごとをお作りなさい。

グレッグ・イーガン『ゼンデギ』ハヤカワ書房、2015、549頁

今まで、イーガンの小説に登場するデータとしての人間には初期のバージョンがあり、その初期のバージョンにはなんらかのデータの抜けがあるのではないかと不安だった。その抜けは後世の技術で補完されるのかもしれないが、それでは補完前と後では、別のものになってしまう。
そんな不安はイーガンの小説内ではありえないことを、テクノロジーがそこまで進歩するまで人間をスキャンすることはゆるさない団体がいることを保証した小説なんじゃないかと思う。

2016年10月16日日曜日

グレッグ・イーガンの『白熱光』を読んで励まされた。

読み終えてからしばらく経つので記憶があいまいなのだけど、『ディアスポラ』の主人公ヤチマは<創出>によって形成された、親をまったくもたない市民で、たぶん今でも真理鉱山を掘り続けているはずだ。

「あなたはDNA生まれですか?」

グレッグ・イーガン『白熱光』ハヤカワ書房、2013、7頁

登場人物のラケシュへ投げられた上の質問で始まる『白熱光』は、『ディアスポラ』と兄弟のような話に違いない。あれだけ遠くまで行った『ディアスポラ』を越えられるのか?という疑問と不安は読み始めるとすぐに消えていった。

『白熱光』で描かれる2つの世界

『白熱光』は、奇数章と偶数章で異なる話が展開していき、それぞれの話がどう絡んでいくのかが物語としての楽しさだろう。先に上げたラケシュは奇数章の主人公でDNA生まれではあるが、『ディアスポラ』のヤチマ同様に、データとして存在するようになっており、世界に倦んでいる。

『まだなされていないことはない。まだ発見ずみでないものはない。』

グレッグ・イーガン『白熱光』ハヤカワ書房、2013、8頁

銀河円盤全体に広がった通信ネットワークで繋がった融合世界を、データ化された人々は自由に移動できる。だが銀河の中心に意思の疎通が出来ていない世界がある。それが孤高世界と言われるもので、どうやら別の文明が存在しているらしい。
奇数章のラケシュは誰も見たことのない孤高世界への冒険の旅へと出、偶数章ではその孤高世界の姿が描かれる。

2つの世界には大きな偏りがある

ラケシュは、孤高世界を冒険し別のDNAにより発展した種族を見つけることが出来、その種族は孤高世界の住人によって、ある目的のために設計された種族であるということまでわかる。
(たぶんラケシュに発見されたのと同じ種族の)偶数章の主人公ロイは、自分たちが住む星の外部すら見たことがなく、自分たちの星がどのように動いているのかも知らない。
知らないことだらけの偶数章では、いくつもの新しい発見と発見の間違いの発覚が起こり、絶望的な状況になりつつあるように見えつつも、世界は活気に満ちている。
ロイにとっての世界は、まだ知り得ぬ驚きに満ちている。

ここでの中心は偶数章の世界ではないか

読み始めたとき、発見されていない世界に住んでいるラケシュが物語全体の主人公となり、何も知らないロイたちを見つけて世界の一部に取り込むことがお話の中心だと思っていた。だけど読み進めていくと、どうもその読み方に違和感が出てきた。ラケシュの世界では、さまざまなテクノロジーを描いていてワクワクはするのだけれど、大したテクノロジーも出てこず、原始的な方法で世界を解明しようと右往左往しているロイの世界のほうが面白いのだ。
ほとんど神の視点で不死を生きるラケシュよりも、差し迫った種族の滅亡をなんとか回避していくロイに感情移入しやすいからかもしれない。

「本書の感想(レビュウ)の約半分は、次にあげる四つのうち、最低ひとつの勘違いをしている」

グレッグ・イーガン『白熱光』ハヤカワ書房、2013、409頁

もちろん、私もイーガンが言うようにひとつ以上の勘違いをしていた。中性子星とブラックホールの違い、降着円盤とは何か、ということなど『白熱光』を読むまで考えもしなかった。
ロイが物語のはじめ、何も知らなかったように、私も何も知らなかった。ロイが徐々に好奇心を持ち始めたように、私も好奇心を持ち始めた。

次はどのような世界が描かれるか

『順列都市』も『ディアスポラ』も『白熱光』も、すべて永遠の時間を手に入れている人々が描かれる。共通点は少ないかもしれないけれど、ビルを永遠に登ったり、真理鉱山を掘り続けたり、世界に倦んでいたりする。
『クロックワーク・ロケット』は、時間と速さの相対性が設定の中心にあるようだ。永遠の時間を手にしない人々がどのように描かれるのか、限られた時間をどのように生きるのか、そのあたりを気に留めながら読んでみよう。

2016年9月28日水曜日

殺されるより怖い『イット・フォローズ』。

僕が住んでいる町は山に囲まれているため、新しい情報を得られるような場所は図書館か駅前の本屋かレンタルビデオ屋に限られている。その日もGEOで何かとの出会いを求めていた私は、『イット・フォローズ』のジャケットと出会った。
アメリカの田舎の住宅街を背景にしたような表紙に、”それ”のルールがショッキングピンクで書かれていた。

”それ”は人からうつすことができる。
”それ”はゆっくりと歩いてくる。
”それ”はうつされた者にしか見えない。
”それ”に捕まると、必ず死ぬ---

この設定の”それ”がいたとして、どうやって主人公たちは対処するのか?いかにして設定に気づいていくのか?どんな工夫で乗り越えるのか?
早くもこの設定に囚われてしまった僕にはもう借りるしか手がなかった。

私は追われているのか

”それ”に捕まってしまえば必ず死ぬ、というのは映画の冒頭で示されるように確実なことのようだ。
殺されること以上に、追われているかわからないことがこの映画では恐怖を生み出している。
”それ”はうつされた者だけにしか見えない、というルールは厳密には少し違う。”それ”を一度うつされたあと、他のひとに”それ”をうつして、もう追われていないはずの人にも見える、という備考がつく。”それ”はいつも違う人間の格好をしており、時にはすぐに人間でないと気づくような姿をしているときもあれば、すぐには人間と区別がつかない姿のときもある。見知らぬ姿をした人物は”それ”の可能性があるのだ。
上記ルールから記載が漏れているもう一つのルールがある。”それ”をうつしても、うつした相手が死んだ場合、”それ”の対象はまた自分に戻ってくるというルールだ。うつした相手の生死がはっきりとわからない場合は、”それ”がふたたび追ってきている可能性を否定できず、一度”それ”をうつしても安心出来る日はこない。

彼女を愛しているのか

もう一つの恐怖がこの映画には映し出されている。
セックスによって”それ”はうつる。
この映画はアメリカの田舎町を舞台に主人公たち、ティーンエイジャーの姿を描く。恋愛もやはり大きな割合を占める。
主人公の少女ジェイに思いを寄せる、冴えない青年ポールがいる。ポールはジェイを助けるため、”それ”がうつる覚悟があることを示してジェイを誘う。ポールはジェイが自分のことに興味がないことを知っていながら”それ”のおかげで自分の欲望を満たしているということに気づいているようにも見える。主人公を救うという正義感でその気持ちに気づかないふりをしているようにも見える。その後、ポールが娼婦街を車で巡回していることから、”それ”を娼婦にうつすつもりなのだろうとわかる。
ポールはジェイの愛を、他人の命を脅かすことで得ようとしている。
そして、ジェイも、ポールに他人に”それ”をうつさせることを前提にしている。
このルールのもとでは、愛の形は変わってしまい、もとには戻れない。
愛しているのかどうかわからなくなってしまっている。
映画の終わり、手を握って歩く二人の姿に幸せそうな雰囲気はない。
殺されない人生のほうが辛いのがこのルールの怖いところだろう。

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角川映画 (2005-03-02)
2016年7月14日木曜日

女を中心に『スカーフェイス』を読み解いてみた

大学からの友人が「生涯で一番好きな映画はScarfaceだよ」というので、GEOで借りてきて観てみたのだけれど、これはどういう映画なんだろうというのが最初の感想だった。

話の流れの振り返りと2つの疑問点

キューバからやってきたトニー・モンタナが麻薬密売で成り上がるギャング映画、というのがおおまかなお話だろう。はじめは下っ端に過ぎないトニーが、仲間を殺されたり、ボスを蹴落としたりしながら、ギャングのトップに成り上がって、最後は殺されてしまう。ああ、やっぱりまっとうな死に方は出来ないんだな、そういう教訓的な映画なんだな、というのが最初の感想だった。どうにもそれだけでは解せなくて、よくよく振り返ってみるとトニーの行動で2つの疑問点が浮かび上がってきた。

大事な仕事なのに、ターゲットと妻子が一緒で殺せない

疑問点の1つ目は、トニーがもう成り上がっていて大麻の取引をしている仕事仲間から口封じを頼まれたときに起こる。取引先の使いとトニー達で、ターゲットを始末しようと車に爆薬を仕掛けて、さあ後は起爆装置を押すだけ、というところまで準備してホテルの入り口でみんなでじっと待ってる。そこに、いつもは一緒に車に乗らない妻子も同じ車に乗ってくる。トニーは女子供は殺せないと言い、起爆装置を起動しようとする取引先の使いを撃ち殺してしまう。この事件がトニーが殺される直接的な原因となる。
女子供は殺さないという気持ちはわかるんだけど、ここでやらないと後々大変なことになるぞ、ってのは観客だけでなく、車に載ってるトニーの仲間全員がわかってる。ギャングとして成り上がるなら、爆破が優先されるんじゃないの?という疑問が湧いてきたんだよね。

 妹の恋人を撃ち殺す

2つ目は、妹の恋人である仲間のマニーを撃ち殺してしまう点だ。ターゲットを爆破出来ず仕事で失敗して帰ってきたトニーは、留守中に仕事を任せたマニーを探す。そして妹の家に行き、幸せそうな妹とマニーを見て、玄関に出てきたマニーを撃ち殺す。妹の幸せを願う描写は繰り返し描かれているし、マニーも弟分のような仲間で、妹とくっつくことは物語の展開上必然的に思える。幸せそうな二人を見てるんだから、騙してるとかではなく本気だということはわかるだろう。
留守中の仕事を任せたにも関わらず、連絡が取れなくなったというだけではマニーを殺す理由にならないだろう。妹の幸せを願うなら尚更、マニーを殺す理由が見当たらない。

2つの疑問点の共通点は?

トニーはギャングとして成り上がるために、人を殺すことも厭わずにけっこうな悪事に手を染めているように見えたんだけれど、その中での女子供は殺さない発言には驚いた。成り上がるためならなんでもするものだと思っていたからだ。ギャングとして成り上がるよりも大事なものを垣間見せた場面だと思う。そうすると、そこからマニーを殺した理由も見えてきて、妹はギャングとは関係ない世界で幸せになって欲しかったのに、マニーが妹をギャングの世界に引き込んだことが許せなかったんじゃないかと思うんだよね。
トニーが惚れる女はもともとボスの女で、ボスを殺して女を手に入れている。トニーが惚れた女はすでにギャングの世界だから惚れて一緒にいても構わないということになるんじゃないかな。

こんな映画なんじゃないかな

幸せになって欲しい妹にはギャングの世界には関わってほしくなかった。そしてトニーはギャングの世界にいた女を妻として、去っていっても追いかけはしなかった。トニーはギャングの世界に幸せを見出してはいなかったということなのではないか。本心からギャングになりたかったんではなく、ギャングになるしか生きる道がなかったんじゃないかと。
ギャングになるしか行きられないような、歴史に翻弄されたことを示しているのが、冒頭に出てくるキューバの歴史の問題なんじゃないかな。ギャングの成り上がりの話であれば、歴史的な背景は必要なく、ギャングの世界だけを描いていてもいい。だから、この映画は教訓的な映画ではなく、歴史に翻弄された悲しい男の映画なんじゃないかと思うんだ。

2016年5月8日日曜日

『ロング・グッドバイ』にテリー・レノックスがいなかったなら

新訳されたチャンドラーのハードカバーが最寄りの図書館に並んでいるのが目に入って、『大いなる眠り』を読み始めたのが半年ほど前になる。書かれた時系列順に読み進めて、新訳がまだ出ていない『湖中の女』は清水俊二訳で読んだ。徐々に内容に新しさがないように感じて来ていたけど、一度チャンドラーから離れようかと悩みながらも読み進めて、ようやく『ロング・グッドバイ』までたどり着いた。『ロング・グッドバイ』は、今までのものに比べ少し本が分厚い。今までと違いがなければちょっと時間を開けてから読もうと、最初の数ページを読み始めたところで、いままでと全く違うことがわかった。
テリー・レノックスという登場人物に、マーロウと同様にひと目で魅了されてしまったのだ。

テリー・レノックスとギムレットを飲まなくても

文体や物語の構造は他と比べて大きな違いはないのだけれど、『ロング・グッドバイ』は他のマーロウものとは比べ物にならないくらい面白い。そして、その面白さはテリー・レノックス唯一人に依存しているんじゃないかなと思ってる。
『ロング・グッドバイ』は泥酔したテリー・レノックスとフィリップ・マーロウとの出会いから始まるが、今までのシリーズの中でこのような始まり方をしたものはない。テリー・レノックスとマーロウが二人で酒を飲む関係になってから、テリー・レノックスはメキシコに逃げ、妻殺しの容疑を掛けられる。
妻殺しの容疑を掛けられて失踪した夫を探して欲しいと、妻の姉であるリンダ・ローリングから依頼を受けるようにすれば、生きているテリーは小説に登場しなくても同じ筋書きになる。その後は、同じようにロジャー・ウェイドの件の依頼を受ければ、テリー・レノックスと出会っている必要はなくなってしまう。
テリー・レノックスとギムレットを飲まなくても、何も変わらずに事件は起こり、解決されたことだろう。

テリー・レノックスはなんのためにいるのか

テリー・レノックとマーロウは友情関係にあるようにみえる。マーロウは彼を自分と同じ種類の人間とみなし、最初のうちはなんとか立ち直らせたいと思っているように見える。
そのような人物は『ロング・グッドバイ』以外のシリーズには登場していない。マーロウは、テリー・レノックスの無実を信じて疑っておらず、その嫌疑を晴らすために行動している。いや、別の事件として別の依頼人から依頼されている事件を追っていったら、結果的にテリー・レノックスの嫌疑を晴らすことになった、ということはあるだろう。でも、それすらもテリー・レノックスとの友情のために行っているように見えるのだ。
友情のために事件を解決させるため、テリー・レノックスは登場するし、登場させる必要があったんだろう。