長谷川宏著『新しいヘーゲル』を読んだ。古いヘーゲルもそうだが、いかなるヘーゲルについても、ほとんど何も知らない状態から読み始めた。読み終えてみれば、ヘーゲルを常に新しくしていくことこそ、弁証法なのではないかなと思う。
弁証法は意識を成長させる
弁証法の説明がまず最初になされる。弁証法といえば、ヘーゲルの弁証法を指すほどに有名なようだ。どういうものかといえば、否定していくことで、まとまりを成すことを指すようだ。「否定」と「まとまり」。例を読むと理解の助けになる。
種が否定されて芽となり、芽が否定されて茎や葉となり、茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となり、こうして有機体はおのれにもどってきて生命としてのまとまりを得ることができるのだ、と。長谷川宏,『新しいヘーゲル』,講談社現代新書,位置151
言葉として有名な「アウフヘーベン」は触れられていはいるが、詳細は語られない。「捨てつつもちあげる」という意味から推測すれば、弁証法との関わりで理解出来るかも知れない。
『精神現象学』も意識の成長物語として紹介される。学問に至る悪戦苦闘の旅、と。旅の最後に絶対知がくる。これは、弁証法と同じなのではないだろうか。そして後で説明されるように、理性がどこまで現実をとらえるか、ということとも一致している。
意識は現実の奥の奥まで認識できる
理性が現実をとらえるかを示すのは以下の一文で語られる。
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」ということばは、理性への信頼を語る究極のことばではないか、との思いを禁じえない。長谷川宏,『新しいヘーゲル』,講談社現代新書,位置838
奥の奥まで認識できる、といいきるところに、現実の認識に対するヘーゲルの独自性がある。 この点でカントとは大きく異なる。カントは「ものそれ自体」を認識できない。
カントの『純粋理性批判』の内容が見通せたのと比べると、ヘーゲルの理性が具体的にどういったものだか見通せていない。『エンツュクロペディー(綜合哲学概説)』と『論理の学』の解説書をどれほど読んでも物足りないと書いているのだから、それが当然なのかもしれない。しかしながら、もう少し理解はしたい。
社会との関わり
意識と社会との関わりという点では、ギリシャ社会への言及が多い。 ギリシャ社会へのあこがれを持ちつつも、個人が自立することで、社会から離脱していくことが、ギリシャ社会から進んだ次の段階と捉えていた。 芸術は、作品をうみだしたその時代の共同体精神を体現しつつ美しくなければならないとも考えていたようで、ギリシャの彫刻への言及も興味深い。
最後は、ヘーゲル誕生の地で、なぜ反近代の思想であるナチズムが起こったのかを問題提起して結んでいる。