2024年8月6日火曜日

ウイスキーのことを知りたくて小諸蒸留所に行ってきた

最近、ウイスキーを飲むようになった。歳のせいなのか、ビールばかり飲んでいるせいなのか、健康診断の数値がよくないので、少し習慣を変えてみようと飲み始めたのがきっかけだった。近くにオーセンティックバーがあることがわかり、試飲会などに行くうちに、ウイスキーのことを調べるようになり、さらに興味を持つようになった。 ウイスキーの本には製造工程が書かれているものもあり、どんな風に作られるのか読んで見た。頭では理解できている気がするのだけど、情報が足りないのがわかる。ウイスキーのことも最近まで知らなかった人間が本を読んだだけで納得できるほどには、実際に体験した情報が少ないのだ。見学できる蒸留所はないか調べてみると小諸に蒸留所があることを知った。

小諸蒸留所の製造ツアーへ

小諸蒸留所の見学はネット上から予約をし、送迎サービスも同時にお願いをした。蒸留所は小諸駅から少し離れたところにあり、所定の時間に小諸駅ロータリーにお迎えに来ていただきスムーズでとても助かった。 今回は初めてなので、製造ツアーと座学のアカデミーを受講できる、プラン2 KOMORO Academyにした。料金は3,800円。製造ツアーは、大きな蒸留用のスチルポットのある製造エリアに入ることができる。

入口で渡されたヘルメットをかぶり、蒸留所の方々が作業している中を邪魔にならないように見学させていただいた。そのためツアーの人数が6名と、少数に制限されているのだと思う。 作業工程は、粉砕、糖化、発酵、蒸留に分かれていて、それぞれの工程を説明してくれる。 使っている大麦はすでにピートで乾燥されたものを輸入しているとのことで、モルティングは小諸ではしてない。粉砕した大麦を3つのタンクを使って1日ずつずらして発酵させていくとのことで、それぞれのタンクの中を見せてくれる。発酵度合いによってタンクの中は異なり、3日目になると発酵による泡が発生していて、泡が溢れないように泡を切る装置がタンクにはついていた。 蒸留用のスチルポットは2つあり、すぐ横から見ることができて大きさがよくわかる。あまり見る機会のない下からも見ることができるのも工場見学の醍醐味かもしれない。 


製造所の見学が終わると少し離れたところにある、熟成庫も見学することができる。大きな建物だが、丸い屋根がかわいらしい綺麗な建物だ。ここで最低3年熟成されてウイスキーとなって販売されていく。

販売は2026年頃を予定しているとのこと。

ウイスキーアカデミーへ

製造ツアーが終わると、ウイスキーアカデミーが始まる。製造ツアーでも情報が多く整理しきれていないが、さらにここから座学が始まる。 ウイスキーに関する資料と、飲み比べのためのウイスキー3種類が準備されていた。 ウイスキーは香りと味わいの分類についてや、色合いの違いなどを中心に教えてくれる。初心者のための基礎講座とのことだけれど、知らないことも多い。バーボン樽とシェリー樽でかなり違いが出るようで、そんな観点で見ていなかったので面白かった。バーボン樽は黄色がちでバニラやシトラスの香り、シェリー樽は濃い色がちでシナモンの香りが多い、ということだった。あくまで基本で、異なる例はたくさんあるのだと思うけど、はじめのうちの指標にはとても良さそうだと思う。 ウイスキーの知識を学びつつ、では味比べしてみましょうということで、飲んで見る。 見た目や味からそれぞれの違いくらいは分かるようにはなるかもしれない。 3種類飲み比べると、アカデミーが終わる頃には良い感じに出来上がっていて、当たらなくてもしょうがないという気になっている。

アカデミーが終わるとまた小諸駅へ送っていただく。 小諸で有名なのbar Zizzさんへ行ってみたかったので、少し酔いを覚ましてから寄って帰りました。良いBarでした。 蒸留所とバーを巡る、小諸のウイスキーの旅、とても良い旅になのではないだろうか。

2023年12月2日土曜日

スティーブン・キングの『異能機関』を読んで。

スティーブン・キングの『異能機関』を読んだ。キングの小説を読むのは久しぶりだ。ホリー・ジャクソンの『自由研究には向かない殺人』三部作の読書体験が良かったから、ページをめくる手が止まらなくなるような本がまた読みたくなってきていたのかもしれない。期待に違わず、読み進むにつれてページをめくる手は止まらなくなった。

あらすじ

カバーの袖にはこう書かれている。

異能の少年少女を拉致する謎の機関〈研究所〉。
彼らは子供たちの超能力を利用して何を企図しているのか。
冷酷なるくびきから逃れるため、少年は知恵をめぐらせる。

主人公のルークは、12歳にして飛び級で大学進学をするような頭脳明晰な少年だ。その頭脳とは別に、テレキネシスの能力があり、その能力に目をつけられて、研究所に拉致されて来る。研究所には他にも能力を持つ子供が何人もいて、能力開発のために注射を打たれ、浴槽に沈められ、人権などない暮らしを強要されている。

『ショーシャンク』との違い

『ショーシャンクの空に』の主人公は元銀行員で、金融の知識によって刑務所長含め、刑務所で働く人々の信頼を得る。結果として、生活の質を向上させる。ある事件を経て、囚人と看守という関係を超えて築いていたと思っていた信頼関係は幻だっということがわかり、失意の主人公は脱獄を実行する。脱獄の手段は長い期間準備されている。チェスの手を読むのと同じで、次の手を読んでいる。そして友情だ。

『ショーシャンクの空に』と『異能機関』の間には多くの類似点を見ることが出来る。

『ショーシャンク』では、無実の罪で収容されていた主人公だが、刑務所は政府の機関として機能していた。そこに不正を見出すことで囚われている意味が失われて脱獄へと至る。 不正を行った所長は裁きにあう。

研究所とは何か

だが、『異能機関』では、捕らえる側の研究所に正当性が見いだせない。

主人公を拘束している機関が、国の後ろ盾がある刑務所から、世界各地にある巨大な組織だがどうも正当性が危うい研究機関に変わっている。これは大きな変化だと思う。

熱心なステイーブン・キングのファンというわけではないので、見当外れなことを言っているかもしれない。『シャイニング』も『ミザリー』も閉鎖空間を描いているという点では同じかもしれない。それぞれ主人公を捕らえている人々がどういう人なのかを考えてみるのも良いのかもしれない。

2023年11月25日土曜日

ジョー・サッコ著『パレスチナ』を読んで。

本書は、著者のジョー・サッコが1991年から1992年にかけての二ヶ月間を、イスラエルの占領地であるヨルダン川西岸とガザ地区で過ごした記録だ。ジョー・サッコ自身はオレゴン大学でジャーナリズムを学んだアメリカ人であるが、アメリカでの報道の偏りに気づいたことから、占領地に行こうと決めたとある。

私自身も最近、生活していて得られる情報に偏りを感じていた。きっと多くのことを学べるだろうと読み始めた。そして多くのことを学びすぎてしまった。

状況のわからなさ

本書は漫画であり、著者本人が占領地へ行くまでの歴史のことは漫画内では詳しくは描かれない。 前提知識がないと、パレスチナ人を突然襲う兵隊たちは誰なのか、なぜユダヤ人が銃を持ってパレスチナ人を威嚇するのか、パレスチナ人たちは誰に向かって石を投げているのかがすぐにはわからない。著者が、イスラエルから入国し、その後パレスチナへ移動する姿を追っていくと、その生活水準や環境の落差に驚くことになるが、なぜこれほどの差が生じているのかも、わからない。

このイスラエル、パレスチナ間で起きているすべてが、読んでいる読者だけでなく、住んでいるパレスチナ人にとっても不条理で意味のわからないものなのではないかと思えてくる。

パレスチナで起きていること

本書でのパレスチナはイスラエル軍の占領下にあり、パレスチナ人は正当な理由なく逮捕され、イスラエル人入植者のために家を壊され、土地を奪われ、拷問を受ける。対抗する手段は投石しかなく、投石をすると銃で撃たれる。第一次インティファーダ(民衆蜂起)の時期である。関税も公平でなく、イスラエル産のものに比べ、パレスチナ産のものには多くの税がかけられ不利な競争を強いられる。仕事はなく、イスラエルに行って仕事をするが、ここでも公正には扱われない。夜間外出禁止令があり、夜8時から朝4時までは外出禁止だ。

いったい何が起こっているのだろう。これは30年も前の話であり、少しずつでも状況は良くなっているのだろうかと不安に思っていると、2001年の完全版へのまえがきでは状況は悪くなっていると書かれている。

なぜ情報が入ってこないのか

これだけ、情報が溢れた世界で、今までなぜ知らなかったのだろう。興味がなかったからと言ってしまえばそれまでだが、興味がない情報も身の回りに溢れていることを考えれば、それ以外の理由があるのだろう。

世界にはもっとひどい不正義が存在していて、死体の山が築かれている場所があるとは聞いている。
ジョー・サッコ,『パレスチナ 特別増補版』,いそっぷ社,2023年

ジョー・サッコはこう言っている。私個人に、いったい何が出来るのだろうか。

漫画以外にも、エドワード・サイードとジョー・サッコ本人の、訳者の小野耕世の文章があり、理解を補ってくれる。パレスチナ問題略年表もある。この本のみでもパレスチナ問題を理解する第一歩には十分になりえると思う。

現在、戦闘が始まってから14,000人以上のパレスチナ人が死に、1,200人のイスラエル人が死んでいる。30年経って状況は改善されていない。

2023年4月3日月曜日

『パレードのシステム』の読書会に参加した

長野市で高山羽根子さんご本人がいらっしゃる読書会が開催されることを知り、急いで申し込んだ。まだ定員に達していなかったようで、なんとか参加できることになった。読書会自体、初参加であり、本を読んでいくかどうかすら知らなかった。確認したら課題図書を読んでいき、意見を掘り下げていくのが基本のようだ。読書会まで5日しかない。すぐにKindleで『パレードのシステム』を購入し読み始めた。

いくつかの重要と思える要素

きっかけとなる出来事は祖父の死と、それにともなう葬式だ。

死をきっかけに祖父の過去を知り、それを知るために行動することになる。葬式は記録に残りにくい、過去の風習が残るシステムとして描かれる。表題の『パレードのシステム』とは、葬式のシステムのことだろう。 祖父の遺品が台湾に関することであることがわかり、台湾出身の知り合いの梅さんに相談する。遺品の中に残っていた新聞などに、なにか祖父の過去の手がかりを求めてしまっていることに主人公はためらいも感じている。祖父は台湾で生まれたということがわかる。

父親の葬式へ出席するため帰国する梅さんとともに、主人公も台湾へ向かうことになる。梅さんの父の葬儀は日本の葬儀とは異なる。台湾の原住民の歴史も日本の歴史とは大きく異なる。例えば、好兄弟であり、出草であり。

カスミの死は、ピタゴラ装置で自死する仕組みである。ここでもシステムである。

システムによる生と死を描いているのではないか、というのがテーマを読み取った結果だ。『パレード』はもしかしたら生を現しているのかもしれない。

顔のテーマ

まだよくわからないのは、顔をテーマとしていること。主人公の芸術作品は顔をテーマとしている。誰のものでもない、でも誰かには似ているあるいはすべての人に似ている顔、としているので、これを小説に読み替えれば、誰のものでもない、でも誰かには似ているあるいはすべての人に似ている人生、という形になるのではないかとは思う。

台湾の原住民の間では、顔への入れ墨が民族を区別する印となっていたこともある。ペッパー君の顔認識、梅さんの祖父と父親の顔を覚える能力。台湾の鬼に顔と名前を一致されるのは縁起が悪い。

果たして、これで高山羽根子さんご本人もいらっしゃる読書会へ挑んで良いのだろうか。心配である。

読書会へ参加してみて

高山羽根子さんご本人から直接お話を聞けた、また感想を言えたのも良かった。参加者が10人の読書会で皆さんそれぞれの感想だったのもあるかと思うけど、多解釈できることが良いということをおっしゃっていた。「テーマは3つ」で、『首里の馬』もテーマは3つくらいということをおっしゃっていて、複数のテーマを1つのテーマに収束させようとしなくても良いのだと、少し読みの幅が広がったように思える。

ひとつだけ心残りなのは、同時開催されていた『高山羽根子手書きメモ展』で展示されたいたメモがどのように書かれていくのかを質問しなかったこと。メモがスケッチブックに貼られて、きれいな作品になっていたので、どのような工程で最後に目にした形になっていくのか気になった。

2023年3月18日土曜日

『ソクラテスの弁明』を読んだ。

先日SteamDeckを購入した。Steam用のゲームをするためのモバイルゲーム機だ。Steamのセールになる度に衝動買いをして積んだままのゲームをやらなければと思い購入したものだ。 積んでいたゲームの中に『Assassin's Creed Odyssey』があった。紀元前430年のギリシアを舞台にしたゲームだ。旅行で行ったギリシアの街並みを観ることも出来るかもしれないと、ゲームを開始した。ゲームを進めるとともに、この時代に生きているソクラテスのことを知らなければいけないと思いが募り『ソクラテスの弁明』を手にとった。

告発された理由

『ソクラテスの弁明』は、紀元前390年頃、ソクラテス自身が告発された裁判で、自分自身のことを<弁明>する話である。告発された内容としては不敬神、つまり神を敬っていないから、ということになるのだろうか。裁判の手順としては、不敬神に当たるのかが裁かれ、その後、刑罰を決めるというに段階の手順になる。そしてそれぞれの段階でソクラテスは弁明をしていく。

不敬神への弁明は、告発者との対話によって、告発者の話の間違いを正すことで、不敬神には当たらないと弁明する。これは、ソクラテスが普段から行っている対話を再現するものだろう。対話によって、告発者や対話者が知っていると思っていたことが、実は知っていると思っているに過ぎなかったことが明らかになる。これによって、ソクラテスは対話者の「不知」を暴くことで恨みを買い、告発されるまでになっていったのであろう。

古くからの告発と新しい告発者への告発の2つへの弁明となっているのが素晴らしい。古くからある告発の内容を吟味せずに、今回の告発が行われいるということを明らかにしていく。実際に恨みを抱いたものからの告発でなく、古くからある評価を検討することなく鵜呑みにして、新しい告発が行われているさまが描かれる。

ここでは、対話を始めるきっかけとしての「デルフォイの信託」の話が描かれている。「最高の知者」としてのソクラテスの話だ。

死刑を避けない

ソクラテスは、古くからの告発者たちの「知らないことを自覚していない」ことを暴き、告発を受けている。だから、ソクラテスは死を「知らない」と自覚しているが故に、死を恐れてはいけない。だから死刑を避けてはいけないのだと思う。 有罪であると決まったあと、告発者が求めている死刑に対し、ソクラテスが対案としての刑罰を提案する。ソクラテスが提案する刑罰は食事だ。食事をする刑罰なんて聞いたことがないが、自分の非を認めていないソクラテスは食事を提案する。それはあんまりだといういうことで、裁判所に来ていた仲間たちが罰金刑へと促すのだが、死刑となる。

納冨信留さんの解説が素晴らしい。現代に通じる話であり読みにくい話ではないが、時代背景がことなるので詳しい解説が理解の助けになった。とくによく知られている「無知の知」についての解説がよかった。

ソクラテスが「知らないと思っている」という慎重な言い方をしていて、日本で流布する「無知の知」(無知を知っている)といった表現は用いていない点である。
プラトン,『ソクラテスの弁明』,光文社,2022年,位置1429

「不知」は「知らないこと」で、「無知」は「知らないこと/不知」を自覚してない、状態。「知らないこと/不知」を自覚していない状態を「思い込み」(ドクサ)と呼ぶ。知らないことを自覚していない状態、「無知」が最悪の恥ずべき状態。 「無知の知」では、「知らないことを自覚していないことを知っている」になってしまう。

2023年3月5日日曜日

『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は未来を舞台にしているが、今の時代を描いている。

図書館に行ったときには、いくつかの新聞の書評欄を読むようにしていて、その中でも読売新聞の書評で興味を持ったのが『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』だった。

ダンサーの主人公は交通事故で右足を失い、踊りを諦めていたのだけれど、AIを搭載した義足とともに再び踊ることに挑戦する、という話だ。ただ、歩けるようになるだけでなく、AIがダンスという芸術を表現するようになる、という点が『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』なのだろう。護堂恒明は、自身の踊りを理解するようにAIを訓練していく。

言語を介さないコミュニケーション

ここからいくつかの話が立ち上がってくる。恋人との出会いと、踊りの師匠でもある父親の認知症だ。 父親は自らの事故で恒明の母親である妻を喪ったことをきっかけとして、認知症の進行が進んでゆく。恒明は父親を踊り手として尊敬しているが故に、コミュニケーションをとってこなかったことを後悔する。認知性が進行してゆき、もはや正常な会話が成り立たないような状況でも、体が覚えていた踊りによるコミュニケーションは出来た。恋人と会うシーンはあまり描かれない。普段の連絡は主に端末によるメッセージのようだ。恋人との心情は実際に会っているときに、言葉ではなく食事中の所作などで、お互いに言葉を介さないコミュニケーションをしている。

プロトコル・オブ・ヒューマニティとは

この、言葉を介さないコミュニケーションの大きさを伝えるのが本書のテーマで、タイトルである『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』になるのだろう。 新型コロナウィルスによる影響で、オンラインでのやり取りが増え、対面で会話をする機会が減った。この小説は、人間とはなにかという普遍的なテーマと、人は会うことでどんな情報のやり取りをしていたのかという同時代的なテーマを表現している。『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は未来を舞台にしているが、今の時代を描いている。

2023年2月13日月曜日

『ナーゲルスマン流52の原則』を読んで、サッカーの見方が変わってしまった。

日韓ワールドカップのグループリーグで絶望するルイス・フィーゴを目にしてすぐ、チャンピオンズリーグを観るためにWOWOWに加入した。もう20年以上前の話だ。 それ以来になるが今シーズンはチャンピオンズリーグをグループリーグから観ている。2022年はワールドカップも開催されていたので、サッカーをよく観た。

サッカーを観ていると、ゴール前を守備陣が固めていて、どうやってもゴールを奪えそうにないなと思えるときがある。もちろん、そのままゴールが生まれず試合が終わるときもあるが、予想に反してゴールを奪えるときもある。 なぜ違う結果になるのか、強いチームと弱いチームとはなんなのか。 絶望する選手や、ゴールのカタルシスを楽しむだけではなく、サッカーの中身を楽しみたくなった。

そんなときに出会ったのが本書『ナーゲルスマン流52の原則』だ。

52の原則に細かく分かれていることで、理解がしやすい

52ある原則のうち、サッカーのピッチ内での戦術は30であり、他の22はピッチ外での原則となっている。しかしながら、ピッチ外での原則もサッカーで勝利するための原則には違いない。原則自体はナーゲルスマンがまとめ上げたわけではなく、著者の木崎伸也さんが取材と分析の結果まとめたもののようだ。このまとめ方がサッカー理論初心者の私にはとてもわかりやすかった。30もの項目に細かくわけてくれていることで、ひとつひとつの原則を適用する場合がよくわかる。

たとえば「原則1:最小限の幅」である。

攻撃中にワイドの選手が中へ移動し、陣形の幅を狭めること。
木崎伸也,『ナーゲルスマン流52の原則』,ソル・メディア,2022年,20頁

「原則1」と合わせてしまって良いのではないかと思われる原則に、「原則5:狭いポジショナルプレー」、「原則6:ボックス占拠」がある。これらを別にすることで、複数の原則を組み合わせて展開することが出来、バリエーションを作り出せる。

細かなものでいえば「原則13:6番の場所では横パスしてはいけない」という、パスの仕方の原則まである。6番とはボランチのことだ。6番はスローインもしてはいけない。このように原則を細分化していることで、ひとつひとつの原則がわかりやすくなっている。

サッカーの新たな戦術を探し求めている

サッカーの戦術が、どこまで考えられているものなのか、まずそれを知らなかった。個々の選手の主体性に任せている部分が大きいのだと思っていたので、パスの仕方までチームとして決めているとは思っていなかった。そこまで考えているということを知れたのは大きい。試合の見方も大きく変わるだろう。初めて読んだサッカー戦術本として、どのようなレベルで考えているか基本的なことを知れたのはよかった。

それと同時に、今までのサッカーの戦術を打ち破ろうとしているのが良くわかった。ウィングはピッチの幅全体に広がるのが良いものだと思っていたが、そうでない戦術が「原則1」として定義されている。それが、既存の戦術を尊重した上で組み立てられているというのが良い。

『監督は常にスープの中の髪の毛を探さなければならない』
木崎伸也,『ナーゲルスマン流52の原則』,ソル・メディア,2022年,91頁

チャンピオンズリーグラウンド16第2レグのザルツブルグ戦後に語ったというこの言葉が、ナーゲルスマンの考え方を現しているように思える。 戦術を重視しながら、これからのチャンピオンズリーグを観ていこう。

2023年2月5日日曜日

『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで 』を読んで

フランス革命のことを知りたくなったのは、自由と平等の成り立ちと、封建主義から国民主権への移り変わりがどのように行われたか知りたかったからというのが一点、もう一点は、自由と平等を獲得したフランスと植民地との関係を知りたかったからだ。

フランス革命の影響

自由と平等の成り立ち、封建主義から国民主権への移り変わりが本書で取り上げられている中心と言えるだろう。 フランス革命と植民地との関係への言及はない。フランスと他国との関係でいえば、フランス以外のヨーロッパのでは王国が成立していて、その中で国民主権を目指すフランス革命が起こったとなれば、他国が自国への影響を恐れるのは当然であり、またフランスが獲得した自由と平等を他国へ広めていこうというのも当然である。戴冠したナポレオンがどのような行動をしいていくのか気になるところではあるが、それは本書では描かれていない。

フランス革命を成し遂げた場合、他国にとって封建制度を土台から揺るがす脅威となり戦争の種となる。フランス革命を成し遂げたいフランス内部の目線でしか考えていなかったが、他国から見れば煩わしい問題が起きていて火の粉が降り掛かってくると見える。この観点からは考えたこともなかった。

フランス革命の成り立ちへの違和感

国王ルイ十六世は、改革派で国民のためを思って革命を許容しているように思える。ヴァレンヌ逃亡事件など、革命の妨げとなる行動もしているが、現代の人間と地続きの感性を持っているように思われ、処刑は象徴的な意味合いが大きいように思える。王妃マリーアン トワネットの処刑に関しても、革命政府による革命裁判で処刑された人々に、今まで革命を戦ってきた同士も含まれてくるのをみると、処刑の意義は見いだせない。

ロベスピエール率いる革命政府による恐怖政治は、国王が主権を持つ絶対王政から国民主権への移行の失敗と捉えることも出来る。国民主権を実現するに際して、ナポレオンを皇帝に擁立するという方法以外で、実現することは難しかったのか、よく考えてみたい。

フランス革命の結果

本書のタイトルが『物語フランス革命』であることを考えると、処刑されて空白となったルイ十六世の替わりに、生まれを問わない新たな王として皇帝ナポレオンが戴冠をしたという結末は納得のいくものである。しかしながら、自由と平等、国民主権という観点ではこの結末で良かったのだろうか、という疑問は残る。

王政が倒れたあとの革命政府による恐怖政治の様子をみると、新たな王を擁立しなければ安定した政治を築けなかったのかと思わされる。国民主権という観点から考えれば、一度実現した男性普通選挙も、財産による参政権の制限が復活していることからも、フランス革命で国民主権を勝ち取ったとは言い難いのかもしれない。

すべてが願い通りになったとはいえないかもしれないが、それでも封建主義からの抜け出す大きな一歩だったのだろうことは本書から理解は出来た。

2023年1月27日金曜日

『チェチェンの呪縛 紛争の淵源を読み解く』を読んで、歴史を忘れないようにしようと思った。

『チェチェンへようこそ ゲイの粛清』という映画が気になっていた。LGBTがニュースの話題として登ることが当たり前になった現在、性的嗜好によって命に危険が及ぶ国とは、どのような国なのかと興味を持った。

あるとき図書館の棚を眺めていたら本書『チェチェンの呪縛』が目に入った。手にとって見ると、チェチェンはロシアに隣接していて、90年代にはロシアと戦争をしていたようだ。ロシアと隣接する国との戦争。現在起きているウクライナとロシアとの戦争を理解する手がかりになるかもしれないと読み始めた。

政権のための戦争

チェチェンから逃げてきた人々の難民としての暮らしと、逃げても続くロシアからの暴力が冒頭で描かれる。チェチェンへの空爆とそれに対して行われる報復としてのテロ。戦争のきっかけはチェチェンの独立にあるのだろうが、それを許さない理由はロシア側にある。

チェチェン戦争の狙いは、本書で述べたように、おもに資源争奪をめぐる経済戦争であったのと同時に、エリツィン、プーチン両政権を通じてつねに政権を浮揚させる梃子として利用されてきた。
横村出,『チェチェンの呪縛 紛争の淵源を読み解く』,岩波書店,2005年,位置2521

石油資源をめぐる戦争というのは理解できる。本書を読んで考えさせられたのは、政権のために戦争が行われているという点だ。支持率をあげるためにテロへの報復として空爆が行われる。

資源の確保ではなく、テロとの戦い

資源確保のためにチェチェンの独立をロシアが許さない、というのがもともとの戦争の理由だ。しかし、9.11以降、戦争の理由が「テロとの戦い」となり激しさを増す。戦っているのはロシア人とチェチェン人だったはずだが、厳戒態勢化の選挙で成立した親ロシア政府軍が、独立派チェチェン人による「テロとの戦い」を始める。

この時点で、丁寧に歴史を振り返らなければロシアとの関係が見えにくくなっている。チェチェン人同士の紛争にすることで、ロシアの責任を見えにくくし、チェチェンを「正常化」しようという意図が見える。「正常化」してしまったチェチェンでは、もう体制に反対することは難しくなるだろう。

難民の人々は、理由もなく平和な生活を奪われ、慣れない土地で暮らさざるをえない。将来の見通しも難しい。解決への糸口も見えない。こちらから情報を得ようとしない限り、現在のチェチェンの情報が報道されることもない。 少なくとも忘れないようにすることで抵抗していきたい。

2023年1月12日木曜日

『だし生活、はじめました。』を読んで、だしをひいてみた。

どんな本か

料理をするならば、だしをひいた方が良いという気持ちはあるが、それでもなかなかだしをひくことが出来ない。 本書は、だしのひき方を教える本というよりは、そんな人の背中を押してくれるの本なのではないだろうか。

だし生活をはじめるに際しての道具の購入からはじまり、だしとなる鰹節・昆布がどのように作られているか、関東と関西のだしの歴史がどのように形成されたのであろうかなどが描かれる。だしを巡る知識を外堀から埋めていき、だしへの興味を深めていった結果、だしを取り始めるようになる人々の姿が目に浮かぶ。

だしのひき方

もちろん、かんたんな昆布だしのひき方を知ることも出来る。

1リットルの水にだし用の昆布10グラムを入れ、冷蔵庫に入れて一晩から二晩おく。
梅津有希子,『だし生活、はじめました。』,祥伝社,2015,178頁

読み終えてすぐに真昆布を10ぐらむを入れて出汁をとってみた。乾麺のそばのつゆに昆布だしと醤油を入れるだけで十分美味しかった。

かんたんな鰹だしのひき方もしることが出来る。

分量は、水1リットルに、本枯れかつお節を15グラム。 鍋に水を入れて沸騰したら、大きめのボウルに熱湯を注ぎ、かつお節を入れて1分待ちます。その後ふきんでこして出来上がり。
梅津有希子,『だし生活、はじめました。』,祥伝社,2015,72頁

こちらは家にかつお節がなかったので、まだ試せていない。ふきんでこすのは難しそうなので、家にあるかつお節こし器を使ってみようと思う。

良かった点

スーパーでは日高昆布をよく見かけるが、だしをひくのならば日高昆布ではなく、真昆布か羅臼昆布をオススメしてくれている。濃厚さから真昆布か羅臼とのことで、昆布だしに慣れていなくて、だしをひいてもあまり味を感じないと続かないと思うので、濃厚さは重要だと思う。手間をかけた見返りが少ないと続かないと思うので。

かつお節出汁はまだ試せてなく、何も知らない状態が続いているので、具体的に良かった点もまだわからない。今後に期待。 少なくとも、選ぶべき昆布とかんたんな出しのひき方がわかったので、良かった。今後も無理せず続けていきたい。

2022年12月31日土曜日

メアリ・ロビネット・コワルの『宇宙へ』は、理性で宇宙へ向かう。

メアリ・ロビネット・コワル著『宇宙へ』を読んだ。

年末にかけて軽い気持ちで読める小説を探していたときに、地元の図書館で見つけたので手にとった。一泊二日の人間ドックに出かける日に、急いで下巻を図書館へ借りに行った。宇宙飛行士の訓練シーンを読んでいたことで、初めての経鼻胃カメラを苦しいながらも受け入れることが出来たのではないかと思っている。

隕石の落下から宇宙を目指す

1952年、巨大隕石がワシントンD.C.近海に落下した。その影響で間もなく地球の環境が変わり、今後地球は人類が住めない星になると計算で判明する。その前に、人類は宇宙へ行かなければならない。

主人公のエルマは、隕石の落下時、ワシントンD.C.からほど近い山中にいたが、厄災を生き延び、夫とともに被災していない米軍基地へ身を寄せる。エルマは数学の博士号を持つ元パイロットで、国際航空宇宙機構で女性計算者として働きながら、人類発の女性宇宙飛行士として宇宙を目指すことになる。

理性で未来を切り開かなければならない

巨大隕石落下の衝撃は大きいが、世界は時間とともに日常を取り戻していく。隕石の落下によって噴き上げられた水蒸気による温暖化は目に見える速さでは起こらない。だが、目に見えだしたら手遅れになる。実際に温暖化が起こるまで、信じることが出来ない人々もいる。宇宙開発に力を入れるより、地元を優遇しようとする政治家たちがいる。それらの人々を理性で説得しなければ、宇宙開発は進まない。

主人公のエルマは、数学の才能があり、第二次世界大戦で航空機を操縦した経験もあり、宇宙飛行士に適している。だが、女性という理由だけで宇宙飛行士への道は、男性に比べて困難なものとなる。ここでも、女性宇宙飛行士の誕生を望まない人々を説得しなければ、エルマの夢は実現しない。

地球が人間の住めない星になるわけがないという思い込みと、女性が宇宙飛行士になれるわけがないという思い込みを、とけなければ人類が生きながらえることが出来ないという点を解決しながら物語は進んでいく。 だから、『宇宙へ』では、主人公は女性だ。

1952年を舞台にしている理由はもう少し考えないとわからない。

2022年12月27日火曜日

『新しいヘーゲル』を読んで、古いヘーゲルを否定する

長谷川宏著『新しいヘーゲル』を読んだ。古いヘーゲルもそうだが、いかなるヘーゲルについても、ほとんど何も知らない状態から読み始めた。読み終えてみれば、ヘーゲルを常に新しくしていくことこそ、弁証法なのではないかなと思う。

弁証法は意識を成長させる

弁証法の説明がまず最初になされる。弁証法といえば、ヘーゲルの弁証法を指すほどに有名なようだ。どういうものかといえば、否定していくことで、まとまりを成すことを指すようだ。「否定」と「まとまり」。例を読むと理解の助けになる。

種が否定されて芽となり、芽が否定されて茎や葉となり、茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となり、こうして有機体はおのれにもどってきて生命としてのまとまりを得ることができるのだ、と。
長谷川宏,『新しいヘーゲル』,講談社現代新書,位置151

言葉として有名な「アウフヘーベン」は触れられていはいるが、詳細は語られない。「捨てつつもちあげる」という意味から推測すれば、弁証法との関わりで理解出来るかも知れない。

『精神現象学』も意識の成長物語として紹介される。学問に至る悪戦苦闘の旅、と。旅の最後に絶対知がくる。これは、弁証法と同じなのではないだろうか。そして後で説明されるように、理性がどこまで現実をとらえるか、ということとも一致している。

意識は現実の奥の奥まで認識できる

理性が現実をとらえるかを示すのは以下の一文で語られる。

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」ということばは、理性への信頼を語る究極のことばではないか、との思いを禁じえない。
長谷川宏,『新しいヘーゲル』,講談社現代新書,位置838

奥の奥まで認識できる、といいきるところに、現実の認識に対するヘーゲルの独自性がある。 この点でカントとは大きく異なる。カントは「ものそれ自体」を認識できない。

カントの『純粋理性批判』の内容が見通せたのと比べると、ヘーゲルの理性が具体的にどういったものだか見通せていない。『エンツュクロペディー(綜合哲学概説)』と『論理の学』の解説書をどれほど読んでも物足りないと書いているのだから、それが当然なのかもしれない。しかしながら、もう少し理解はしたい。

社会との関わり

意識と社会との関わりという点では、ギリシャ社会への言及が多い。 ギリシャ社会へのあこがれを持ちつつも、個人が自立することで、社会から離脱していくことが、ギリシャ社会から進んだ次の段階と捉えていた。 芸術は、作品をうみだしたその時代の共同体精神を体現しつつ美しくなければならないとも考えていたようで、ギリシャの彫刻への言及も興味深い。

最後は、ヘーゲル誕生の地で、なぜ反近代の思想であるナチズムが起こったのかを問題提起して結んでいる。

2022年12月14日水曜日

『異常 アノマリー』を読んでも異常さは感じられなかった。

エルヴェ・ル・テリエ著『異常 アノマリー』を読んだ。 しばらく前に新聞の書評で知って気になっていたのだけど、紀伊國屋書店で全面カバーされているのをみて、そこまでお勧めするならと読む気になった。最近の読書傾向とは少し違う、軽い気持ちで本を読みたいなと思っていたのも、後押しになったかな。

小説の形式と小説内で起こること

何人かの登場人物がそれぞれの人生を歩んでいる中で、共通の出来事を体験し、その後の人生が大きく変わってしまう、というのが話の大枠となる。

ある飛行機が嵐に見舞われ、嵐を抜けると三ヶ月経っている。

飛行機に乗っていた乗員乗客が、三ヶ月前の自分として現れる。まったく同じ時間を経験した自分が現れるのではない。三ヶ月間の時間のずれがあることで、登場人物たちに起こった、あるいは起こらなかったことが、それぞれ異なり、人生に影響を与えてゆく。わずか三ヶ月の違いであらわれる、運命のようなものを楽しむことが出来るか否かでこの小説への評価は変わってくるだろう。

必然性が足りていない

三ヶ月前の自分と現在の自分との間で、どのように折り合いをつけていくのか、というのが小説の後半部分の中心となる。三ヶ月の間に起きた、生と死、別れと誕生、やり直すことの出来ない事柄。 登場人物たちが、その組み合わせのために存在しているように思えてしまい、それ以上の存在理由が見いだせないな、というのが率直な感想だ。各登場人物の話が進んでいき、もう一度一点に集約する展開があれば、物語上の必然性をより感じることが出来るかもしれない。

展開してほしいのは

展開して欲しかったのは、この物語の核をなす、シミュレーション仮説だったのだと思う。

物語の中心となった飛行機以外にも、過去に別の飛行機もどうように三ヶ月後に現れたことが明示されている。そして乗客の命に関しては保証されていないように暗示されている。にも関わらず、最後の展開がなされると、設定としても腑に落ちない。

あまりハードSFになりすぎると、軽く読むという当初の目的からずれてしまうので、これで良かったのかもしれない。

2022年11月26日土曜日

『プラトン哲学への旅 エロースとは何者か』を読んで『饗宴』に参加した気分になる

納富信留著『プラトン哲学への旅 エロースとは何者か』を読んだ。プラトンの『饗宴』の舞台となった紀元前416年のアガトン邸の寝椅子に横たわり、『饗宴』への演説に参加することで『饗宴』とはどのような作品なのかが見えてくる。

時代背景が説明される

民主主義で統治されたアテナイには、プラトンが開設したアカデメイアがあり、『饗宴』で描かれるのは、ディオニュソス劇場での悲劇コンクールで優勝したアガトンの祝勝会での出来事となる。 一見民主主義が根ざした平和なアテナイではあるが、スパルタとのペロポネソス戦争は続いており、ポピュリスト政治家のアルキビアデスによってシチリア征服という破滅へと向かっていく直前という不安定な情勢の中にいる。 プラトンの『饗宴』を読んだだけでは、ここまでの時代背景は読み取れないのではなかろうか。

プラトンの哲学とは

引用されているソクラテスの発言は、カント哲学との類似を見ることができる。

「ディオティマよ。では、知を愛し求める者とは誰でしょう。知恵ある者でも無知な者でもないとしたら?」 「それは、子供にも明らかですよ。それらの両者の中間の者で、その中にはエロースもいるのです。」
『饗宴』203E-204B

イデアの観点では、美であるところのものそれ自体を認識しているので、「現象」と「ものそれ自体」を分けるカント哲学とは異なっている。

この世のもろもろの美しいものから出発して、かの美のために常に上昇していき、あたかも階段を用いるようにして、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、そして二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そしてさまざまな美しい肉体から人間の美しい営みへ、そして人間のさまざまな営みから美しい学びへ、そしてさまざまな学びから、他ならぬ かの 美そのものを対象とするこの学びへとたどり着き、最後に、まさに美であるところのものそれ自体を認識することになるでしょう。もしどこかにあるとすれば、人生のここにおいてこそ、人間にとってその生が生きるに値するものとなるのです。すなわち、美そのものを観照する時に。
『饗宴』211C-D

プラトンの他の著書『ポリティア』に出てくる洞窟の世界へ入り、そこでソクラテスと出会うなど、プラトンの哲学に関する説明もあるが、本書を読んでも全体像なかなか見えてこない。見えてこないのが当たり前なのかもしれない。 『饗宴』で登場した人物が、別の著作にも出てくることもあることを知れたので、機会があれば『饗宴』そのものもだが、他の著作も読んでみたい。

話は逸れるが

ディオニュソス劇場は2010年のギリシャ旅行で訪ねていた場所だったようだ。2400年前にアガトンの劇が演じられていたと知っていれば、観光にももう少し深みが出たかも知れない。よくあることなので、あとから知るのも良いかもしれない。

『アサシンクリードオデッセイ』は、紀元前430年のスパルタを舞台にしており、『饗宴』の登場人物も、ゲーム内に多く存在しているようだ。

2022年11月20日日曜日

『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』を読んだ。

御子柴義之著『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』を読んだ。

本書はカントの『純粋理性批判』を解説した本『プロレゴーメナ』を解説した本だ。『プロレゴーメナ』は『純粋理性批判』の無理解に対して、カント自身が書いた解説書だ。カント哲学の核心を知りたいのであれは、本人が書いている『プロレゴーメナ』を読めば良いではないかと思われると思うが、引用される『プロレゴーメナ』の文章を読めば、事前知識がなくては到底理解できないことがわかる。

流れを見失ったときはヒュームの警告へと戻る

読み始めてすぐわかるが、はじめは頻繁に現れる新たな概念をその都度理解して、置いていかれないようにするのが精一杯だ。話の流れを追えなくなったときは、ディヴィッド・ヒュームの警告へと立ち戻ってみるのが良いようだ。

さて、ヒュームの所説の中でたいへん有名なものの一つに次の主張がある。原因と結果における必然性は、Aタイプの出来事の知覚とBタイプの出来事の知覚とが恒常的に連接することによって心に、経験に依存して(ア・ポステリオリに)生み出される習慣に過ぎないという主張である。
御子柴義之著,『カント哲学の核心』,NHK BOOKS,2018,位置:426

なぜなら、このヒュームの警告に対して、「ア・プリオリな総合的判断はいかにして可能か」という問が生まれているからだ。

なぜ純粋数学/純粋自然科学からはじまるのか

概念、直観、純粋直観、感性、悟性と概念はさらに複雑さを増してくる。それぞれの概念を理解するのがやっとで、純粋数学と純粋自然科学の話が出てくる必然性が見えにくい。

それらを話題にしているのは、以下の点を説明するためなのではないかと理解した。 純粋数学での要点は、対象とア・プリオリに出会うために、「現象」と「ものそれ自体」に分けることだろう。「ものそれ自体」と出会うのであれば、ア・ポステリオリで経験的に過ぎない。 純粋自然科学での要点は、直観を概念に包摂することで経験判断をする、そのために純粋悟性概念が必要なことだろう。

たとえば、三月末に校庭で美しい花を咲かせている樹木を見て(直観し)、それを桜という概念の下に置くことで、〈今年も桜が咲いている〉という判断が下される。
御子柴義之著,『カント哲学の核心』,NHK BOOKS,2018,位置:1562

そして、判断を下す、量、質、関係、様相をもつ純粋悟性概念の表を提示する。 これにより、認識の増大を伴う判断である総合判断をア・プリオリに可能ということになる。

以上のように、経験一般を分析することによって、カントは「意識一般」を取りだし、そこで純粋悟性概念がア・プリオリに知覚を結合することで客観的な経験判断が可能になることを明らかにしたのである。
御子柴義之著,『カント哲学の核心』,NHK BOOKS,2018,位置:1590

いかにして形而上学一般は可能か

ここからは理性の話となる。

悟性は感官においてもたらされた直観を概念に包摂することで判断を下すが、理性は直観なしに判断を下し、理念を導出する。理念とは、心理学的理念、宇宙論的理念、心理学的理念からなり、絶対的全体、経験可能な領域を超えた概念である。 理性は<知らないこと>と<知っていること>の「関係」を類推に従って考える。が、直観を欠いているので、客観に妥当する判断を下すことはない。 <知らないこと>と<知っていること>の、「境界」を見定めることが、理性によって世界を考える態度、ということになるのだろう。

どんなものが理性なのかはなんとなく、理解している気がするが、なにか腑に落ちない点がある。「以上で形而上学は可能である」という意見をうまく飲み込めていないのだ。

もう少し考えてみようと思う。

「ものそれ自体」と「現象」。純粋悟性概念と純粋理性概念。とにかく、面白く、数多くの概念が登場し、読めば、今まで自分はどのように生きていたのか、改めて振り返ってみることになる。そして、これからの生き方に影響を与えることは間違いない。

2022年2月27日日曜日

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と、私に共通するものは

私は資本主義を信仰しているのか

世界史リブレットの『中世の異端者たち』と『宗教改革とその時代』を読み、今までキリスト教とひとまとめに考えていたが、カトリック、プロテスタントとその他にもさまざまな異端があることを知った。『中世の異端者たち』で扱われている異端にいたっては、信じることが違うだけで火刑に処せられている。中には、すでに埋葬されてていたにもかかわらず、遺体を掘り起こされ焼かれているものまでいる。にわかには信じられない話だ。

それらを読んだことで、今、現代を生きている我々とはまったく違う考えを持ちながら生きていた人々がいたことに思い至った。と、同時に今私が信じて疑わない行き方も、生き方の一つでしかないことに気付かされた。

今、私が信じていること、それは資本主義だ。

つまり、私は生まれながらに資本主義を信仰しているということになる。無宗教だと思っていたわけだが、考える根底には資本主義があったはずである。では、あったとして、資本主義から要請される行動とはなにか。それを知りたくて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み始めた。

プロテスタンティズムの要点とは

私はキリスト教徒ではないため、ほんとうのところはわからないが、キリストとともに復活するのがキリスト教徒の望みだと思われる。この望み、つまり救いが到来するのは、カトリックであれば客観的な力の働きによるもので、自己の価値によるものではない。カトリックでは悔い改めることで、神の恩恵を得られた。

だが、カルヴィニズムでは違う。恩恵を得られるかどうかは神の決断により決まっており、信仰や善行でその決定に干渉し予定を変更することはできない。つまり、いつまでも救いの確証が得られない。そのことから、救いへの干渉はできないものの、絶え間ない禁欲が求められるようになる。

禁欲とは、何かを我慢するのではなく、ある目的のためにすべてを投げうって取り組む能動的な行動を指している。カトリックでは修道院などの世俗の外で行われる、世俗外禁欲であったの対し、ルターによって形を変えてゆく。世俗の中で行われる世俗内禁欲へと発展し、天職倫理へとつながっていく。ここに至って、怠惰や快楽を求める場合以外の営利を求めることが開放され、また消費することは良しとしないことから、資本が形成されていくことなるという説明が続いてゆく。

では、プロテスタントと私にある共通点とは

プロテスタンティズムと私に共通するものは天職倫理だ。 何かを一途に取り組めばある程度なにかを成し遂げることができる、という考えを私は持っている。そしてその考えを人生全体に押し広げて生きている節がある。当たり前のように思って生きてきたが、どうやらそうではないようだ。勘違いしてはいけないが、この考え方がプロテスタントや資本主義から来ているということではない。あくまで似ている、というだけだ。

日本的な表現をすれば、何かをやるときにその道を極めようとするのは、普通のことではなく、ひとつの態度に過ぎない。

それはほかでもなく、宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ、ということだ。しかも従来の形態による宗教の支配がきわめて楽な、当時の実際生活ではほとんど気付かれないほどの、多くの場合にほとんど形式に過ぎないものだったのに反して、新しくもたらされたものは、およそ考えうるかぎり家庭生活と公的生活の全体にわたっておそろしくきびしく、また厄介な規律を要求するものだったのだ。
マックス・ヴェーバー著,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,岩波書店,2012,位置:198

重要なのは気づいたことだ。

別の場所、別の時代に生きていたら、別の考え方で生きていただろう。

この規律の外へ出ることは出来るだろうか。

2022年2月9日水曜日

『うしろめたさの人類学』を読んで

人類学とはなんだろう

『うしろめたさの人類学』を読んだ。人類学についての本を読むことが初めてなので、人類学とはどんなものなのかも曖昧だ。

多くの人類学者は、世界の片隅で起きている小さな出来事に立ち会って、その場所から世界の成り立ちを理解することに情熱を傾けてきた。
松村圭一郎著,『うしろめたさの人類学』,ミシマ社,2017,93頁
これが人類学の定義というわけではないだろうけど、人類学が何をしているのかは説明してくれている。世界の成り立ちを理解しようとしているのだ。そして『うしろめたさの人類学』では、エチオピアと日本というそれぞれの世界の片隅で起きている出来事から世界の成り立ちを理解しようとしている。

うしろめたさは人類学とどう関わってくるのか

エチオピアでの滞在の内容を読む限り、経済的には日本のほうがかなり恵まれているようだ。だが、弱者へ手を差し伸べる機会は、圧倒的な豊かさを前提にしても日本よりもエチオピアのほうが多い、という点が考えるきっかけとなっている。手を差し伸べる頻度の違いを、商品交換と贈与の話をもとに考えた上で、今いる環境の中で行動を変える手段として「うしろめたさ」を提案している、ということだろう。

今の社会制度をすぐに大きく変えることはできない。その中で、各人が出来ることとして、「うしろめたさ」を変化するための足がかりとしたのは、個人が行動を変えることで社会全体を変えることが出来るということを示すためだろう。なんの後ろ盾もない「うしろめたさ」という感情を起点として社会を変えていく。人々の関係の中で作られた社会だからこそ、人々が自律的に変われば社会も変わるということなのだろう。

市場や国家という制度によって分断され、覆い隠されているつながりを、その線の引き方をずらすことで、再発見すること。そしれそこに自律的な社会をつくりだすこと。それがこの本でたどりついたひとつの結論かもしれない。
松村圭一郎著,『うしろめたさの人類学』,ミシマ社,2017,185頁
ここでたどりついている結論が、著者の主張している「構築人類学」そのものということになるだろう。

構築人類学とは

いまここにある現象やモノがなにかに構築されている。だとしたら、ぼくらはそれをもう一度、いまとは違う別の姿につくりかえることができる。(略)。その希望が「構築人類学」の鍵となる。
松村圭一郎著,『うしろめたさの人類学』,ミシマ社,2017,17頁

「構築人類学」は、現状を分析するだけではなく、「うしろめたさ」などの社会を変えるための手段を見極めて、社会をより良く変えていくことを目的としているようだ。 だから、誰にもでもわかる「うしろめたさ」を変化の起点としなければならなかったのだろう。

2022年1月22日土曜日

菅平高原スノーリゾートに行ってきた。

大雪の中スキー場へ

長野県も新型コロナウィルスの感染者が増えてきているが、長野県民割によるリフト券が半額になるということもあり、誘われて菅平高原スノーリゾートへ行くことになった。事前に日程を決めたが、大雪の予報となってしまった。スキー場は上田市へ抜ける道の途中にあり、何度も通ったことがある。山深くカーブが続く道だと知っているので大雪の日に通りたい道ではない。あまり雪が降るようであれば日を改めても良いかと思っていた。

当日は予報通り朝から雪が降り始め、このまま降り続けると帰りの道は大丈夫なのかも心配だ。それ以前に行くまでの道のりすら心配なほどの雪の降りだ。妻は強く降り出した雪をみて急遽不参加となった。不安な気持ちで集合場所へつくと、地元出身の主催者は中止の気持ちはまったくないようだ。地元の人が大丈夫と言うのだから大丈夫だろうと、雪道をスキー場へと向かった。

複数の山をまたいだゲレンデ

あまりの大雪だったので、菅平についてすぐの菅平サンホテル横の駐車場に車を停めた。駐車場からすぐ近くにレンタルスキーやスキースクールの申込場所があり、リフト券売り場も目の前にある。リフト券を買ってすぐに乗れるリフトもあった。便利だ。

スキー板をレンタルして最寄りのステージ3リフトで、太郎山を登っていく。登った先は太郎山山頂付近で、山頂から放射状にいくつものゲレンデがあり、ゲレンデの下からはまた山頂へ登るリフトが動いている。少し急な斜面の中級者コースのゲレンデであれば、迂回して滑れるように林間コースも併設されているところが多く、林間コース好きには嬉しい。コース図では林間コースを滑って隣のゲレンデに行けるように描かれているのに、実際は整備されていないコースもあった。どのリフトに乗っても太郎山山頂につくので、それがわかっていれば好きなコースに戻れるので問題ないだろう。

太郎山のコースですらすべてを滑れていないのに、連絡通路を使えば根子岳のゲレンデへも行けてしまう。太郎山にくらべて根子岳のゲレンデは幅が広くなだらかで初心者にも滑りやすい。この日は太郎山と根子岳で疲れ切ってしまって行けなかったが、車で移動をすれば、つばくろ山と大松山のゲレンデを滑ることも出来る。つまり、太郎山、根子岳、つばくろ山、大松山の計4つの山を滑ることができるのだ。

本場のパキスタンカレー

ゲレンデの食事は期待しないようにしているのだが、この日はパキスタン料理が食べれたら嬉しいなと思っていた。菅平高原ではパキスタンカレーフェアが開催されていたことを知っていたからなのだが、今回は人と来ているのでその時の流れで食事場所が決まるだろうと半分あきらめていた。駐車した菅平サンホテルに併設されたレストランWingに入ると、パキスタン料理らしいメニューが張り出されている。カレーよりは食べたことのないものにしようと、ティカロールとタンドリーチキンを頼んだ。

食券を渡す受付の女性は外国の方で期待が高まる。奥の厨房にはナンを焼くためのタンドール窯があり、窯の内側にナンの生地を貼り付けて焼き上げている。ティカロールも焼き立てのナンで提供された。スパイスで味付けされたチキンと千切りの野菜がナンで包まれている。手で持って食べやすいようにと、紙でくるまれているのだが、その紙はポップコーン用のものらしく大きくポップコーンと書かれている。それを気にせず、ティカロールに使ってしまうあたりが、本場パキスタン料理という感じがとてもでていて嬉しくなってしまった。

2021年12月17日金曜日

『修道院にみるヨーロッパの心』を読んで

朝倉文市著『修道院にみるヨーロッパの心』を手に取ったとき、修道院のことをまったく知らないことに気づいた。修道院という施設とそこで暮らす人々の姿は本や映画で目にしたことがある。以前観た『薔薇の名前』の舞台として描かれていて、どのような暮らしをしているかなんとなく覚えている。 だが、なんのための修道院なのかとなるとはっきりしないのだ。

修道のはじまり

まず修道士・隠遁者としての苦行が生まれた経緯は複雑だ。 苦行は神に到達するための手段であるようなのだが、苦行が生まれる前、神に到達する手段は他にもあった。それが、キリスト教への迫害による殉教である。だが、ミラノ勅令によりキリスト教が認められると、迫害がなくなり殉教するものがいなくなる。そのため、苦行をすることで神への到達を目指す修道士が生まれたようだ。 聖人として神へ到達する手段が他者からの迫害による殉教しかないのか確認の必要があるが、自らの苦行による神への到達という自主的な手段が生まれたのは良いことのようにも思える。 自主的な苦行はすでにしていたのかもしれない。

共生生活における戒律

苦行を一緒に行う共同体として、エジプトに修道院が生まれる。 その後、聖ベネディクトゥスによって6世紀ほどに作られた戒律は、クリュニー修道院、シトー会修道院、ドミニコ会へと連綿と続いていくことになる。ベネディクトゥス戒律の中心には次のような思想がある。

学問を一度は体験し、軽んじることはないが、神の国のためにそれを放棄し、超越するということです。
朝倉文市著,『修道院にみるヨーロッパの心』山川出版社,1996,21頁

さまざまな修道会が生まれる

修道院の規模が大きくなり、町中の教会へお布施をするよりも、修行をしている修道院へお布施をする人々が増えてくる。修道院でも贅沢をするようになり、もっと厳しい修行へ向かう人々が別の修道会を立ち上げることが多いようだ。 修道会の役割としては、改宗したカタリ派の人々が住むための修道院を建てたドミニコ会や、巡礼者のための病院としての騎士修道会がある。 神殿騎士修道会は、全会員が逮捕・財産を没収され異端審問にかけられ火刑にされている。それだけ、経済力と影響力があったことの証だろう。

読み終えて

修道院の目的は、神へ到達するための苦行の場ということで、おおまかにわかった。さまざまな修道院があり、それぞれに特色があるようで、ひとまとめにしての判断は難しいという感想だ。『中世の異端者たち』と『宗教改革とその時代』に続けて読んだことで、深く広く理解が出来てたのではないかな。

2021年11月18日木曜日

『中世の異端者たち』と『宗教改革とその時代』を読んで

マルティン・ルターの指摘によって教会の腐敗が改善された結果、より良いものとしてプロテスタンティズムが現代まで続いているのだと思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。

指摘は過去から行われている

カトリック教会の腐敗を指摘したのはルターが初めてではない。 『中世の異端者たち』によれば、教皇グレゴリウスによる11世紀のグレゴリウス改革ですでに教会の腐敗は内部から指摘されている。16世紀にルターが「95カ条の論題」を書き教会の腐敗を訴えるまで、多くの異端が生まれている。 グレゴリウス改革から生まれたとされる、ヴァルド派。肉体を悪と見る、ボゴミル派。そこから派生したカタリ派。千年王国主義、自由心霊派など。それらの派は異端とされ、十字軍を送ってまで撲滅されているものもある。

ルターの主張が取り上げられた背景

では、ルターの主張は正しいから、受け入れられたのかというと、そうではなさそうだ。 『宗教改革とその時代』によれば、主権国家の発生とともに、ルターの主張を利用してカトリック教会の影響力を弱めようとした背景があるようだ。国王の正当性を教皇が担保する仕組みでは、教皇の権力は大きくなるばかりだ。そこで、国王の正当性を神が直接担保する王権神授説を取りいれ教皇の力を弱めたい。そこで利用されたのがルターとなる。

プロテスタンティズムの影響は

ルターの指摘した免罪符は善行を積めば救済されるというカトリック的な思想が現れている。ルターは救済の主体は神の側にあり、善行を積んでも救済されるかどうかはわからないという思想だ。 現在にどのような影響があるのか、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読まなくてはならないだろう。