僕が住んでいる町は山に囲まれているため、新しい情報を得られるような場所は図書館か駅前の本屋かレンタルビデオ屋に限られている。その日もGEOで何かとの出会いを求めていた私は、『イット・フォローズ』のジャケットと出会った。
アメリカの田舎の住宅街を背景にしたような表紙に、”それ”のルールがショッキングピンクで書かれていた。
”それ”は人からうつすことができる。
”それ”はゆっくりと歩いてくる。
”それ”はうつされた者にしか見えない。
”それ”に捕まると、必ず死ぬ---
この設定の”それ”がいたとして、どうやって主人公たちは対処するのか?いかにして設定に気づいていくのか?どんな工夫で乗り越えるのか?
早くもこの設定に囚われてしまった僕にはもう借りるしか手がなかった。
私は追われているのか
”それ”に捕まってしまえば必ず死ぬ、というのは映画の冒頭で示されるように確実なことのようだ。
殺されること以上に、追われているかわからないことがこの映画では恐怖を生み出している。
”それ”はうつされた者だけにしか見えない、というルールは厳密には少し違う。”それ”を一度うつされたあと、他のひとに”それ”をうつして、もう追われていないはずの人にも見える、という備考がつく。”それ”はいつも違う人間の格好をしており、時にはすぐに人間でないと気づくような姿をしているときもあれば、すぐには人間と区別がつかない姿のときもある。見知らぬ姿をした人物は”それ”の可能性があるのだ。
上記ルールから記載が漏れているもう一つのルールがある。”それ”をうつしても、うつした相手が死んだ場合、”それ”の対象はまた自分に戻ってくるというルールだ。うつした相手の生死がはっきりとわからない場合は、”それ”がふたたび追ってきている可能性を否定できず、一度”それ”をうつしても安心出来る日はこない。
彼女を愛しているのか
もう一つの恐怖がこの映画には映し出されている。
セックスによって”それ”はうつる。
この映画はアメリカの田舎町を舞台に主人公たち、ティーンエイジャーの姿を描く。恋愛もやはり大きな割合を占める。
主人公の少女ジェイに思いを寄せる、冴えない青年ポールがいる。ポールはジェイを助けるため、”それ”がうつる覚悟があることを示してジェイを誘う。ポールはジェイが自分のことに興味がないことを知っていながら”それ”のおかげで自分の欲望を満たしているということに気づいているようにも見える。主人公を救うという正義感でその気持ちに気づかないふりをしているようにも見える。その後、ポールが娼婦街を車で巡回していることから、”それ”を娼婦にうつすつもりなのだろうとわかる。
ポールはジェイの愛を、他人の命を脅かすことで得ようとしている。
そして、ジェイも、ポールに他人に”それ”をうつさせることを前提にしている。
このルールのもとでは、愛の形は変わってしまい、もとには戻れない。
愛しているのかどうかわからなくなってしまっている。
映画の終わり、手を握って歩く二人の姿に幸せそうな雰囲気はない。
殺されない人生のほうが辛いのがこのルールの怖いところだろう。