2022年11月26日土曜日

『プラトン哲学への旅 エロースとは何者か』を読んで『饗宴』に参加した気分になる

納富信留著『プラトン哲学への旅 エロースとは何者か』を読んだ。プラトンの『饗宴』の舞台となった紀元前416年のアガトン邸の寝椅子に横たわり、『饗宴』への演説に参加することで『饗宴』とはどのような作品なのかが見えてくる。

時代背景が説明される

民主主義で統治されたアテナイには、プラトンが開設したアカデメイアがあり、『饗宴』で描かれるのは、ディオニュソス劇場での悲劇コンクールで優勝したアガトンの祝勝会での出来事となる。 一見民主主義が根ざした平和なアテナイではあるが、スパルタとのペロポネソス戦争は続いており、ポピュリスト政治家のアルキビアデスによってシチリア征服という破滅へと向かっていく直前という不安定な情勢の中にいる。 プラトンの『饗宴』を読んだだけでは、ここまでの時代背景は読み取れないのではなかろうか。

プラトンの哲学とは

引用されているソクラテスの発言は、カント哲学との類似を見ることができる。

「ディオティマよ。では、知を愛し求める者とは誰でしょう。知恵ある者でも無知な者でもないとしたら?」 「それは、子供にも明らかですよ。それらの両者の中間の者で、その中にはエロースもいるのです。」
『饗宴』203E-204B

イデアの観点では、美であるところのものそれ自体を認識しているので、「現象」と「ものそれ自体」を分けるカント哲学とは異なっている。

この世のもろもろの美しいものから出発して、かの美のために常に上昇していき、あたかも階段を用いるようにして、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、そして二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そしてさまざまな美しい肉体から人間の美しい営みへ、そして人間のさまざまな営みから美しい学びへ、そしてさまざまな学びから、他ならぬ かの 美そのものを対象とするこの学びへとたどり着き、最後に、まさに美であるところのものそれ自体を認識することになるでしょう。もしどこかにあるとすれば、人生のここにおいてこそ、人間にとってその生が生きるに値するものとなるのです。すなわち、美そのものを観照する時に。
『饗宴』211C-D

プラトンの他の著書『ポリティア』に出てくる洞窟の世界へ入り、そこでソクラテスと出会うなど、プラトンの哲学に関する説明もあるが、本書を読んでも全体像なかなか見えてこない。見えてこないのが当たり前なのかもしれない。 『饗宴』で登場した人物が、別の著作にも出てくることもあることを知れたので、機会があれば『饗宴』そのものもだが、他の著作も読んでみたい。

話は逸れるが

ディオニュソス劇場は2010年のギリシャ旅行で訪ねていた場所だったようだ。2400年前にアガトンの劇が演じられていたと知っていれば、観光にももう少し深みが出たかも知れない。よくあることなので、あとから知るのも良いかもしれない。

『アサシンクリードオデッセイ』は、紀元前430年のスパルタを舞台にしており、『饗宴』の登場人物も、ゲーム内に多く存在しているようだ。

2022年11月20日日曜日

『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』を読んだ。

御子柴義之著『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』を読んだ。

本書はカントの『純粋理性批判』を解説した本『プロレゴーメナ』を解説した本だ。『プロレゴーメナ』は『純粋理性批判』の無理解に対して、カント自身が書いた解説書だ。カント哲学の核心を知りたいのであれは、本人が書いている『プロレゴーメナ』を読めば良いではないかと思われると思うが、引用される『プロレゴーメナ』の文章を読めば、事前知識がなくては到底理解できないことがわかる。

流れを見失ったときはヒュームの警告へと戻る

読み始めてすぐわかるが、はじめは頻繁に現れる新たな概念をその都度理解して、置いていかれないようにするのが精一杯だ。話の流れを追えなくなったときは、ディヴィッド・ヒュームの警告へと立ち戻ってみるのが良いようだ。

さて、ヒュームの所説の中でたいへん有名なものの一つに次の主張がある。原因と結果における必然性は、Aタイプの出来事の知覚とBタイプの出来事の知覚とが恒常的に連接することによって心に、経験に依存して(ア・ポステリオリに)生み出される習慣に過ぎないという主張である。
御子柴義之著,『カント哲学の核心』,NHK BOOKS,2018,位置:426

なぜなら、このヒュームの警告に対して、「ア・プリオリな総合的判断はいかにして可能か」という問が生まれているからだ。

なぜ純粋数学/純粋自然科学からはじまるのか

概念、直観、純粋直観、感性、悟性と概念はさらに複雑さを増してくる。それぞれの概念を理解するのがやっとで、純粋数学と純粋自然科学の話が出てくる必然性が見えにくい。

それらを話題にしているのは、以下の点を説明するためなのではないかと理解した。 純粋数学での要点は、対象とア・プリオリに出会うために、「現象」と「ものそれ自体」に分けることだろう。「ものそれ自体」と出会うのであれば、ア・ポステリオリで経験的に過ぎない。 純粋自然科学での要点は、直観を概念に包摂することで経験判断をする、そのために純粋悟性概念が必要なことだろう。

たとえば、三月末に校庭で美しい花を咲かせている樹木を見て(直観し)、それを桜という概念の下に置くことで、〈今年も桜が咲いている〉という判断が下される。
御子柴義之著,『カント哲学の核心』,NHK BOOKS,2018,位置:1562

そして、判断を下す、量、質、関係、様相をもつ純粋悟性概念の表を提示する。 これにより、認識の増大を伴う判断である総合判断をア・プリオリに可能ということになる。

以上のように、経験一般を分析することによって、カントは「意識一般」を取りだし、そこで純粋悟性概念がア・プリオリに知覚を結合することで客観的な経験判断が可能になることを明らかにしたのである。
御子柴義之著,『カント哲学の核心』,NHK BOOKS,2018,位置:1590

いかにして形而上学一般は可能か

ここからは理性の話となる。

悟性は感官においてもたらされた直観を概念に包摂することで判断を下すが、理性は直観なしに判断を下し、理念を導出する。理念とは、心理学的理念、宇宙論的理念、心理学的理念からなり、絶対的全体、経験可能な領域を超えた概念である。 理性は<知らないこと>と<知っていること>の「関係」を類推に従って考える。が、直観を欠いているので、客観に妥当する判断を下すことはない。 <知らないこと>と<知っていること>の、「境界」を見定めることが、理性によって世界を考える態度、ということになるのだろう。

どんなものが理性なのかはなんとなく、理解している気がするが、なにか腑に落ちない点がある。「以上で形而上学は可能である」という意見をうまく飲み込めていないのだ。

もう少し考えてみようと思う。

「ものそれ自体」と「現象」。純粋悟性概念と純粋理性概念。とにかく、面白く、数多くの概念が登場し、読めば、今まで自分はどのように生きていたのか、改めて振り返ってみることになる。そして、これからの生き方に影響を与えることは間違いない。