2016年10月16日日曜日

グレッグ・イーガンの『白熱光』を読んで励まされた。

読み終えてからしばらく経つので記憶があいまいなのだけど、『ディアスポラ』の主人公ヤチマは<創出>によって形成された、親をまったくもたない市民で、たぶん今でも真理鉱山を掘り続けているはずだ。

「あなたはDNA生まれですか?」

グレッグ・イーガン『白熱光』ハヤカワ書房、2013、7頁

登場人物のラケシュへ投げられた上の質問で始まる『白熱光』は、『ディアスポラ』と兄弟のような話に違いない。あれだけ遠くまで行った『ディアスポラ』を越えられるのか?という疑問と不安は読み始めるとすぐに消えていった。

『白熱光』で描かれる2つの世界

『白熱光』は、奇数章と偶数章で異なる話が展開していき、それぞれの話がどう絡んでいくのかが物語としての楽しさだろう。先に上げたラケシュは奇数章の主人公でDNA生まれではあるが、『ディアスポラ』のヤチマ同様に、データとして存在するようになっており、世界に倦んでいる。

『まだなされていないことはない。まだ発見ずみでないものはない。』

グレッグ・イーガン『白熱光』ハヤカワ書房、2013、8頁

銀河円盤全体に広がった通信ネットワークで繋がった融合世界を、データ化された人々は自由に移動できる。だが銀河の中心に意思の疎通が出来ていない世界がある。それが孤高世界と言われるもので、どうやら別の文明が存在しているらしい。
奇数章のラケシュは誰も見たことのない孤高世界への冒険の旅へと出、偶数章ではその孤高世界の姿が描かれる。

2つの世界には大きな偏りがある

ラケシュは、孤高世界を冒険し別のDNAにより発展した種族を見つけることが出来、その種族は孤高世界の住人によって、ある目的のために設計された種族であるということまでわかる。
(たぶんラケシュに発見されたのと同じ種族の)偶数章の主人公ロイは、自分たちが住む星の外部すら見たことがなく、自分たちの星がどのように動いているのかも知らない。
知らないことだらけの偶数章では、いくつもの新しい発見と発見の間違いの発覚が起こり、絶望的な状況になりつつあるように見えつつも、世界は活気に満ちている。
ロイにとっての世界は、まだ知り得ぬ驚きに満ちている。

ここでの中心は偶数章の世界ではないか

読み始めたとき、発見されていない世界に住んでいるラケシュが物語全体の主人公となり、何も知らないロイたちを見つけて世界の一部に取り込むことがお話の中心だと思っていた。だけど読み進めていくと、どうもその読み方に違和感が出てきた。ラケシュの世界では、さまざまなテクノロジーを描いていてワクワクはするのだけれど、大したテクノロジーも出てこず、原始的な方法で世界を解明しようと右往左往しているロイの世界のほうが面白いのだ。
ほとんど神の視点で不死を生きるラケシュよりも、差し迫った種族の滅亡をなんとか回避していくロイに感情移入しやすいからかもしれない。

「本書の感想(レビュウ)の約半分は、次にあげる四つのうち、最低ひとつの勘違いをしている」

グレッグ・イーガン『白熱光』ハヤカワ書房、2013、409頁

もちろん、私もイーガンが言うようにひとつ以上の勘違いをしていた。中性子星とブラックホールの違い、降着円盤とは何か、ということなど『白熱光』を読むまで考えもしなかった。
ロイが物語のはじめ、何も知らなかったように、私も何も知らなかった。ロイが徐々に好奇心を持ち始めたように、私も好奇心を持ち始めた。

次はどのような世界が描かれるか

『順列都市』も『ディアスポラ』も『白熱光』も、すべて永遠の時間を手に入れている人々が描かれる。共通点は少ないかもしれないけれど、ビルを永遠に登ったり、真理鉱山を掘り続けたり、世界に倦んでいたりする。
『クロックワーク・ロケット』は、時間と速さの相対性が設定の中心にあるようだ。永遠の時間を手にしない人々がどのように描かれるのか、限られた時間をどのように生きるのか、そのあたりを気に留めながら読んでみよう。

2016年9月28日水曜日

殺されるより怖い『イット・フォローズ』。

僕が住んでいる町は山に囲まれているため、新しい情報を得られるような場所は図書館か駅前の本屋かレンタルビデオ屋に限られている。その日もGEOで何かとの出会いを求めていた私は、『イット・フォローズ』のジャケットと出会った。
アメリカの田舎の住宅街を背景にしたような表紙に、”それ”のルールがショッキングピンクで書かれていた。

”それ”は人からうつすことができる。
”それ”はゆっくりと歩いてくる。
”それ”はうつされた者にしか見えない。
”それ”に捕まると、必ず死ぬ---

この設定の”それ”がいたとして、どうやって主人公たちは対処するのか?いかにして設定に気づいていくのか?どんな工夫で乗り越えるのか?
早くもこの設定に囚われてしまった僕にはもう借りるしか手がなかった。

私は追われているのか

”それ”に捕まってしまえば必ず死ぬ、というのは映画の冒頭で示されるように確実なことのようだ。
殺されること以上に、追われているかわからないことがこの映画では恐怖を生み出している。
”それ”はうつされた者だけにしか見えない、というルールは厳密には少し違う。”それ”を一度うつされたあと、他のひとに”それ”をうつして、もう追われていないはずの人にも見える、という備考がつく。”それ”はいつも違う人間の格好をしており、時にはすぐに人間でないと気づくような姿をしているときもあれば、すぐには人間と区別がつかない姿のときもある。見知らぬ姿をした人物は”それ”の可能性があるのだ。
上記ルールから記載が漏れているもう一つのルールがある。”それ”をうつしても、うつした相手が死んだ場合、”それ”の対象はまた自分に戻ってくるというルールだ。うつした相手の生死がはっきりとわからない場合は、”それ”がふたたび追ってきている可能性を否定できず、一度”それ”をうつしても安心出来る日はこない。

彼女を愛しているのか

もう一つの恐怖がこの映画には映し出されている。
セックスによって”それ”はうつる。
この映画はアメリカの田舎町を舞台に主人公たち、ティーンエイジャーの姿を描く。恋愛もやはり大きな割合を占める。
主人公の少女ジェイに思いを寄せる、冴えない青年ポールがいる。ポールはジェイを助けるため、”それ”がうつる覚悟があることを示してジェイを誘う。ポールはジェイが自分のことに興味がないことを知っていながら”それ”のおかげで自分の欲望を満たしているということに気づいているようにも見える。主人公を救うという正義感でその気持ちに気づかないふりをしているようにも見える。その後、ポールが娼婦街を車で巡回していることから、”それ”を娼婦にうつすつもりなのだろうとわかる。
ポールはジェイの愛を、他人の命を脅かすことで得ようとしている。
そして、ジェイも、ポールに他人に”それ”をうつさせることを前提にしている。
このルールのもとでは、愛の形は変わってしまい、もとには戻れない。
愛しているのかどうかわからなくなってしまっている。
映画の終わり、手を握って歩く二人の姿に幸せそうな雰囲気はない。
殺されない人生のほうが辛いのがこのルールの怖いところだろう。

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2016年7月14日木曜日

女を中心に『スカーフェイス』を読み解いてみた

大学からの友人が「生涯で一番好きな映画はScarfaceだよ」というので、GEOで借りてきて観てみたのだけれど、これはどういう映画なんだろうというのが最初の感想だった。

話の流れの振り返りと2つの疑問点

キューバからやってきたトニー・モンタナが麻薬密売で成り上がるギャング映画、というのがおおまかなお話だろう。はじめは下っ端に過ぎないトニーが、仲間を殺されたり、ボスを蹴落としたりしながら、ギャングのトップに成り上がって、最後は殺されてしまう。ああ、やっぱりまっとうな死に方は出来ないんだな、そういう教訓的な映画なんだな、というのが最初の感想だった。どうにもそれだけでは解せなくて、よくよく振り返ってみるとトニーの行動で2つの疑問点が浮かび上がってきた。

大事な仕事なのに、ターゲットと妻子が一緒で殺せない

疑問点の1つ目は、トニーがもう成り上がっていて大麻の取引をしている仕事仲間から口封じを頼まれたときに起こる。取引先の使いとトニー達で、ターゲットを始末しようと車に爆薬を仕掛けて、さあ後は起爆装置を押すだけ、というところまで準備してホテルの入り口でみんなでじっと待ってる。そこに、いつもは一緒に車に乗らない妻子も同じ車に乗ってくる。トニーは女子供は殺せないと言い、起爆装置を起動しようとする取引先の使いを撃ち殺してしまう。この事件がトニーが殺される直接的な原因となる。
女子供は殺さないという気持ちはわかるんだけど、ここでやらないと後々大変なことになるぞ、ってのは観客だけでなく、車に載ってるトニーの仲間全員がわかってる。ギャングとして成り上がるなら、爆破が優先されるんじゃないの?という疑問が湧いてきたんだよね。

 妹の恋人を撃ち殺す

2つ目は、妹の恋人である仲間のマニーを撃ち殺してしまう点だ。ターゲットを爆破出来ず仕事で失敗して帰ってきたトニーは、留守中に仕事を任せたマニーを探す。そして妹の家に行き、幸せそうな妹とマニーを見て、玄関に出てきたマニーを撃ち殺す。妹の幸せを願う描写は繰り返し描かれているし、マニーも弟分のような仲間で、妹とくっつくことは物語の展開上必然的に思える。幸せそうな二人を見てるんだから、騙してるとかではなく本気だということはわかるだろう。
留守中の仕事を任せたにも関わらず、連絡が取れなくなったというだけではマニーを殺す理由にならないだろう。妹の幸せを願うなら尚更、マニーを殺す理由が見当たらない。

2つの疑問点の共通点は?

トニーはギャングとして成り上がるために、人を殺すことも厭わずにけっこうな悪事に手を染めているように見えたんだけれど、その中での女子供は殺さない発言には驚いた。成り上がるためならなんでもするものだと思っていたからだ。ギャングとして成り上がるよりも大事なものを垣間見せた場面だと思う。そうすると、そこからマニーを殺した理由も見えてきて、妹はギャングとは関係ない世界で幸せになって欲しかったのに、マニーが妹をギャングの世界に引き込んだことが許せなかったんじゃないかと思うんだよね。
トニーが惚れる女はもともとボスの女で、ボスを殺して女を手に入れている。トニーが惚れた女はすでにギャングの世界だから惚れて一緒にいても構わないということになるんじゃないかな。

こんな映画なんじゃないかな

幸せになって欲しい妹にはギャングの世界には関わってほしくなかった。そしてトニーはギャングの世界にいた女を妻として、去っていっても追いかけはしなかった。トニーはギャングの世界に幸せを見出してはいなかったということなのではないか。本心からギャングになりたかったんではなく、ギャングになるしか生きる道がなかったんじゃないかと。
ギャングになるしか行きられないような、歴史に翻弄されたことを示しているのが、冒頭に出てくるキューバの歴史の問題なんじゃないかな。ギャングの成り上がりの話であれば、歴史的な背景は必要なく、ギャングの世界だけを描いていてもいい。だから、この映画は教訓的な映画ではなく、歴史に翻弄された悲しい男の映画なんじゃないかと思うんだ。

2016年5月8日日曜日

『ロング・グッドバイ』にテリー・レノックスがいなかったなら

新訳されたチャンドラーのハードカバーが最寄りの図書館に並んでいるのが目に入って、『大いなる眠り』を読み始めたのが半年ほど前になる。書かれた時系列順に読み進めて、新訳がまだ出ていない『湖中の女』は清水俊二訳で読んだ。徐々に内容に新しさがないように感じて来ていたけど、一度チャンドラーから離れようかと悩みながらも読み進めて、ようやく『ロング・グッドバイ』までたどり着いた。『ロング・グッドバイ』は、今までのものに比べ少し本が分厚い。今までと違いがなければちょっと時間を開けてから読もうと、最初の数ページを読み始めたところで、いままでと全く違うことがわかった。
テリー・レノックスという登場人物に、マーロウと同様にひと目で魅了されてしまったのだ。

テリー・レノックスとギムレットを飲まなくても

文体や物語の構造は他と比べて大きな違いはないのだけれど、『ロング・グッドバイ』は他のマーロウものとは比べ物にならないくらい面白い。そして、その面白さはテリー・レノックス唯一人に依存しているんじゃないかなと思ってる。
『ロング・グッドバイ』は泥酔したテリー・レノックスとフィリップ・マーロウとの出会いから始まるが、今までのシリーズの中でこのような始まり方をしたものはない。テリー・レノックスとマーロウが二人で酒を飲む関係になってから、テリー・レノックスはメキシコに逃げ、妻殺しの容疑を掛けられる。
妻殺しの容疑を掛けられて失踪した夫を探して欲しいと、妻の姉であるリンダ・ローリングから依頼を受けるようにすれば、生きているテリーは小説に登場しなくても同じ筋書きになる。その後は、同じようにロジャー・ウェイドの件の依頼を受ければ、テリー・レノックスと出会っている必要はなくなってしまう。
テリー・レノックスとギムレットを飲まなくても、何も変わらずに事件は起こり、解決されたことだろう。

テリー・レノックスはなんのためにいるのか

テリー・レノックとマーロウは友情関係にあるようにみえる。マーロウは彼を自分と同じ種類の人間とみなし、最初のうちはなんとか立ち直らせたいと思っているように見える。
そのような人物は『ロング・グッドバイ』以外のシリーズには登場していない。マーロウは、テリー・レノックスの無実を信じて疑っておらず、その嫌疑を晴らすために行動している。いや、別の事件として別の依頼人から依頼されている事件を追っていったら、結果的にテリー・レノックスの嫌疑を晴らすことになった、ということはあるだろう。でも、それすらもテリー・レノックスとの友情のために行っているように見えるのだ。
友情のために事件を解決させるため、テリー・レノックスは登場するし、登場させる必要があったんだろう。
2016年4月7日木曜日

テッド・チャンの「理解」を読んで少しすっきりした。

どこで「理解」のことを知ったのか覚えていないのだけど、この短編集を手にした時に、表題作の「あなたの人生の物語」よりもまっさきに読むべき短編だと思ったのはよく覚えている。 思い出せたらすっきりするんだけど、ずっと積読状態で長いこと経ってしまったから難しいかもしれない。

読みたいと思ったきっかけ

どうして読みたいと思ったのか忘れてしまったけど、
最近、「何かを理解する」という仕組みのことを考えていて、答えはないんだろうけど、そのヒントにならないかなと思ったのがきっかけじゃなかったかな。 私の知りたい「仕組み」は、理解の最小単位はどうなってるんだろう、ということだったんだけれど、 「理解」で描かれる「仕組み」は、統一的全体像を理解するというものだった。

数学でも科学でも、美術でも音楽でも、心理学でも社会学でも、あらゆるもののなかに、その統一的全体像が、音符の織りなすメロディが見えるのだ。

「理解」テッド・チャン『あなたの人生の物語』ハヤカワ文庫SF、2003、79頁

何かを理解するときに、それを他のものと切り離して理解することは出来ない。 どこまで切り離していってもなんらかのつながりが残ってしまうだろうから。 だから最小単位を探すのはたぶん徒労に終わってしまうので、統一的全体像を理解するというのは正しい。

回答は臨界量取得後に描かれ、さらに深くまで考えられている

私の理解の「仕組み」を知りたいという疑問への回答は、「臨界量」を越えた直後に描かれている。 自分の思考を記述する言語を見出し、そしてその言語は書き換え可能である。

思考を記述できるのみならず、それ自体のすべてのレベルにおける働きを記述し、変更することもできる。

「理解」テッド・チャン『あなたの人生の物語』ハヤカワ文庫SF、2003、104頁

人が成長するという概念に納得できないでいたが、その原因がわかった気がする。
何かで失敗してもすぐには自分自身を書き換えられないのは当たり前で、 繰り返し同じ動作を行うことでスポーツが上手くなるように、何度も失敗して身体的に書き換えられるのを待つしかない。
書き換え可能な思考を提示されたことで、書き換えられない思考に気付かされた。

2016年3月13日日曜日

『ナイトクローラー』は『ノー・カントリー』と似ているか?

TSUTAYAで先行レンタルしてたので借りてきました、『ナイトクローラー』。
最寄りのレンタルショップはGEOなんだけど、TSUTAYA先行レンタルなので少し足を伸ばして借りてきた。

主人公ルイスがやってること

町にある金網を盗んで生計を立てているような、社会的に恵まれていない主人公ルイス・ブルームが、ある日事故現場の映像をテレビ局に売る仕事の存在を知り、自らもその仕事を始める。映画のはじめから、ルイスは金網も盗むし、それを見回りに来た警備員の腕時計が高価だと見て取れば、殴り倒してそれも奪う。
そんなルイスが事故現場などの凄惨で刺激的な映像を求める仕事につけばどうなっちゃうんだよ!ってのが物語の推進力になってる。

必要に応じてやっている

ルイスがやってることって、貧しいがゆえの行動で必要に応じてやってるんだよね。家に帰れば観葉植物に水やりするような一面を持っていて、暴力とは無縁な生活をしているように見える。会社勤めしていて経済的に問題がなければ犯罪なんて犯さないように思える。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のジョーダン・ベルフォードは、犯罪を起こすし、資本主義を手段として自己実現するので、要素は似てる。でも、自己実現の手段として犯罪を犯しているわけじゃない。ドラッグに溺れたりするのは、稼ぐためじゃなくって好きでやっている。ルイスがお金のために犯罪を犯しているのに比べ、ベルフォードは外部からの求めに応じて犯罪を犯しているわけじゃないところが違うところだろう。
『ダラス・バイヤーズクラブ』のロン・ウッドルーフは、自分と他の患者の命のために無認可のHIVの 治療薬を密輸する。治療薬の認可が下りるのを待っていたら死んでしまうので、仕方なく密輸しているだけだ。薬の認可が降りていれば犯罪など犯さないだろう。ルイスと同様に必要に応じて犯罪を犯してる。でも、二人から受ける印象はまったく異なる。
ロン・ウッドルーフの目的は命を救うことで、ルイス・ブルームは命を危険に晒すことが目的ではなく、手段に過ぎないからだ。

事故はなぜ起こるのか

『ナイトクローラー』を観て、まっさきに似ていると思った映画は『ノー・カントリー』だ。
だけど、上と同じように比べていくと、アントン・シガーとルイス・ブルームには共通点がほとんどないことがわかってくる。ルイスは自ら「Quick Learner」というように、自分自身の行動をどんどん変えてゆく。それに対して、アントン・シガーは、はじめから終わりまで行動に変化がない。自分のためにしているわけでも、金のためにしているわけでもなく、淡々と人を殺していく。シガーの行動は周りに影響を受けていないように見えるが、ルイスは周りの要求に応えるように自身を変化させていっている。シガーはどこへ行ってもシガーのままだけど、ルイスは環境が変われば、別の行動を取る。
ショッキング映像で視聴率を稼ぐテレビの仕組みに、組み込まれたためにルイスは出来上がっている。ルイスが生まれるためには、仕組みが最初にある必要がある。でも、シガーは仕組みそのもの、という感じだ。シガーは誰かの損得に関係なく、殺す。そこに何かが介入して影響をあたえることはない。殺された人は、事故にあったようなもので、そこにシガー個人の考えは一切影響がない。ルイスは自ら事故を起こす。そこには、個人の意志が存在してる。

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)
コーマック・マッカーシー
扶桑社

比べるということ

シガーとルイスを比べてみて、『ノー・カントリー』の何を面白く感じていたのかが、少しわかった気がする。簡単に言ってしまえば、シガーは死神なんだってことだ。生きている死神。それで、本来死神が持つ理不尽さが前面に押し出された結果、とても面白く感じてたってことだ。
そうなると、ルイスのほうが理不尽な死神なんじゃないの、という気もしてくる。それは今度ノーカントリーの原作を読みながら考えてみたい。

2016年2月20日土曜日

『がっこうぐらし!』で由紀が見ているものは何なのか?

アニメ『がっこうぐらし!』を観た。
日常系アニメかと思ってほのぼの見てたら、ゾンビが出て来て意表を突かれたけど、
やっぱり日常系ほのぼのアニメだったな、という感想を書いてみる。
がっこうぐらし! TVアニメ公式ガイドブック 学園生活部活動記録 (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)
原作:海法 紀光(ニトロプラス)×千葉サドル 編:まんがタイムきらら
芳文社 (2015-12-12)

ゾンビがいるのに日常系 

アニメのジャンルには詳しくないけど、『がっこうぐらし!』は日常系アニメに入るはずだ。 学園ものだし、女の子たちが仲良くしてる光景が描かれてるし。
ニコニコ大百科では日常系はこんな風に定義されている。
劇的なストーリー展開を極力排除した、登場人物達が送るゆったりとした日常を淡々と描写するもの 
うーん、「劇的」とか「淡々と」あたりが当てはまらないかな。
ゾンビに関しては、発生後はゾンビは日常の風景となるから日常を描写してると思うんだよね。 ゾンビはモンスターの中では淡々としてる方だし。
今までのゾンビものだと、ゾンビが発生したらどう対応するかっていうのに主眼が置かれていたんだよね。 逃げたり、手なづけたり、治療薬を探したりとか。 それらが物語の推進力になってた。 けど、『がっこうぐらし』では対応は二の次なんだよね。 けっこう簡単にゾンビとの距離を取れてるように見える。食料もあって当座の生活には困ってないしね。
じゃあ、何を優先しているのかというと、由紀の日常を守ることを優先してる。
だから『がっこうぐらし!』は(定義とは少しずれるけど)日常系に入ると思う。

守られる日常

ゾンビが現れて、仲良しだった先生も死んでしまっている。
学校で友達と暮らしているのは学校生活部の部員だからと思っている由紀は、絶望的な現実を受け入れられていない。すでに数人の友人以外はゾンビとして学校の周りを徘徊しているんだけれど、由紀にはその姿は見えずまぼろしの級友と話したりしてる。
そんな由紀の日常を、友人たちは現実を見せないようにして守ろうとしてるんだよね。
けど、見方を変えると、友人たちの目的は由紀の日常を守ることから、自分たちの日常を破錠させないことに変わっているように見える。由紀に対して今までどおり振る舞うことで、自分の日常を守っているという感じかな。現実をわかっているんだけど、あえて見ないようにしてる。周りを見れば自分の町がどうなってるかはおおよそ想像が着くんだけど、あえて考えないようにして日常を続けるように努めてる。
みんなが由紀を守っているんだけど、由紀もみんなを守っているっていう構造になってるよね。由紀がいなかったらゾンビに怯えるだけの生活になって、たぶんプール開きも遠足もなかったんじゃないかな。

ロメロ版『ゾンビ』との共通点

『がっこうぐらし!』に出てくるゾンビは正統派ゾンビだと思う。
噛まれると感染して人間を襲うのはもちろん、早く歩けないし、人間だった頃の習慣を繰り返すっていうところも描いてる。下校時間になれば家に帰るってのは、今までのゾンビものの解決方法にはないかもしれない。
人間関係も似てる。少人数での話だし、めぐねえがゾンビになるのと同じように、『ゾンビ』ではロジャーがゾンビになる。『ゾンビ』での冒頭の突入や、ヘリコプターでの移動シーンは、みーくんを助けるときにあとから振り返る形で描かれてるのがそれにあたるかな。
『ゾンビ』でショッピングモールを暴徒が襲うシーンに対応するものはないね。暴徒に襲われて逃げざるを得ないからショッピングモールから出て行くけど、『がっこうぐらし!』では卒業して出て行くんだよね。『ゾンビ』が時系列に従って描かれるのに対して、『がっこうぐらし!』は、学校ではじまり、学校で終わる。

ショッピングモール率

ショッピングモールは、『ゾンビ』で大きな位置を占める。
外は死者で溢れかえっているのだけれど、ショッピングモールのレストランで一人が給仕役となってワインをグラスに注いでまわるシーンがとても印象的だ。ワインなんて飲んでいる状況ではないんだけど、努めて平静を装って食事をしている。ショッピングモールを楽しんでいるときは、努めて現実を見ないようにしている。
『がっこうぐらし!』でも同じで、由紀のおかげで現実を直視しないですむようになっている。『がっこうぐらし!』は最初から最後まで『ゾンビ』のショッピングモールの時間を描こうとしてるんじゃないかと思う。もしそうだとしたら、ショッピングモール的なシーンが一番多いゾンビものになるだろう。
そして由紀の設定を取り入れたことは素晴らしい発明だと思う。

日常とはショピングモールなのか?

学園生活部のみんなの危機を救うために、由紀は現実と向き合うことになる。現実とは、学校内を徘徊している学生のゾンビたちであり、死んでしまっためぐねえのことだ。死と向き合うことで、学園生活部のみんなを死から守ることが出来るっていうことだろう。
そして終わらない日常は、卒業という形で終わりを迎える。
『ゾンビ』でショッピングモールから出る理由が暴徒によるものだったのに対し、『がっこうぐらし!』では自主的に学校を卒業する。現実と向き合えるようになった由紀の成長を表してるんだろう。
ゾンビが見えない由紀が、見えないまま終わったら物語の体を成さない。
『がっこうぐらし!』はたぶん今までで一番ショッピングモール率の高いゾンビものだと思う。
いつか最後までショッピングモールに居続けるゾンビものを見てみたい。