読むきっかけ
自分の考えの源泉を辿っていくと、生まれ育った環境より遡れないのではないかという思いから、現在の日本とまったく違う価値観の世界への興味で手にとった。一歩外へ出てみなければ、今いる場所が見えないのではないかと思ったからだ。ロリータとは誰なのか?
著者はイラン出身の欧米で教育を受けた英文学者で、欧米の影響を大きく受けた日本で育った私と条件は大きくは変わらないかもしれない。であれば、イランを見る視点も共感出来ることが多いはずだ。『ロリータ』の物語の悲惨な真実は、いやらしい中年男による十二歳の少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにある。チャドルやスカーフの着用が義務付けられたイランの一室で読むロリータは、女性たち自身のことが書かれているようにしか読めないだろう。もちろんその読みは敷衍することが出来て、男性女性を問わず多かれ少なかれどこに生きている人にも当てはまるだろう。
アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』白水社, 2017, 53頁
変わる日常
イスラーム革命後のイランでロリータを読む第一章に続き、革命の最中を描いた第二章、イラン・イラク戦争を描いた第三章と続いていく。既にイスラーム革命が起こって時間の経過した第一章と異なり、第二章、第三章は、徐々に変わっていく環境が描かれる。女性はチャドルやスカーフを着用しなくてはいけないという規則がつくられ、女性の反対にもかかわらず、いかにして実施されたいったのかが描かれる。規則を守らなければ職場の入り口で看守に止められることから始まり、最後は鞭打ちのうえ牢獄行きになる。
理解の地平面
私はそのような変化を理解出来ないが、変化後の世界を求めている人々が少なからずいるということにも納得はいかない。この納得のいかなさは、私が生まれ育った環境で育まれた考えの結果なのだろうか。だとすれば、もし私がテヘランで生まれ育てば私もイスラーム革命後の世界を求め、今の私の考えを理解しないだろう。私はイランで生まれた私のおかしな点は指摘することが出来る。
だけど、私は日本で生まれた私のおかしな点は指摘することが出来ない。
その指摘できない点はどうしたら可視化できるのだろう。