2022年12月31日土曜日

メアリ・ロビネット・コワルの『宇宙へ』は、理性で宇宙へ向かう。

メアリ・ロビネット・コワル著『宇宙へ』を読んだ。

年末にかけて軽い気持ちで読める小説を探していたときに、地元の図書館で見つけたので手にとった。一泊二日の人間ドックに出かける日に、急いで下巻を図書館へ借りに行った。宇宙飛行士の訓練シーンを読んでいたことで、初めての経鼻胃カメラを苦しいながらも受け入れることが出来たのではないかと思っている。

隕石の落下から宇宙を目指す

1952年、巨大隕石がワシントンD.C.近海に落下した。その影響で間もなく地球の環境が変わり、今後地球は人類が住めない星になると計算で判明する。その前に、人類は宇宙へ行かなければならない。

主人公のエルマは、隕石の落下時、ワシントンD.C.からほど近い山中にいたが、厄災を生き延び、夫とともに被災していない米軍基地へ身を寄せる。エルマは数学の博士号を持つ元パイロットで、国際航空宇宙機構で女性計算者として働きながら、人類発の女性宇宙飛行士として宇宙を目指すことになる。

理性で未来を切り開かなければならない

巨大隕石落下の衝撃は大きいが、世界は時間とともに日常を取り戻していく。隕石の落下によって噴き上げられた水蒸気による温暖化は目に見える速さでは起こらない。だが、目に見えだしたら手遅れになる。実際に温暖化が起こるまで、信じることが出来ない人々もいる。宇宙開発に力を入れるより、地元を優遇しようとする政治家たちがいる。それらの人々を理性で説得しなければ、宇宙開発は進まない。

主人公のエルマは、数学の才能があり、第二次世界大戦で航空機を操縦した経験もあり、宇宙飛行士に適している。だが、女性という理由だけで宇宙飛行士への道は、男性に比べて困難なものとなる。ここでも、女性宇宙飛行士の誕生を望まない人々を説得しなければ、エルマの夢は実現しない。

地球が人間の住めない星になるわけがないという思い込みと、女性が宇宙飛行士になれるわけがないという思い込みを、とけなければ人類が生きながらえることが出来ないという点を解決しながら物語は進んでいく。 だから、『宇宙へ』では、主人公は女性だ。

1952年を舞台にしている理由はもう少し考えないとわからない。

2022年12月27日火曜日

『新しいヘーゲル』を読んで、古いヘーゲルを否定する

長谷川宏著『新しいヘーゲル』を読んだ。古いヘーゲルもそうだが、いかなるヘーゲルについても、ほとんど何も知らない状態から読み始めた。読み終えてみれば、ヘーゲルを常に新しくしていくことこそ、弁証法なのではないかなと思う。

弁証法は意識を成長させる

弁証法の説明がまず最初になされる。弁証法といえば、ヘーゲルの弁証法を指すほどに有名なようだ。どういうものかといえば、否定していくことで、まとまりを成すことを指すようだ。「否定」と「まとまり」。例を読むと理解の助けになる。

種が否定されて芽となり、芽が否定されて茎や葉となり、茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となり、こうして有機体はおのれにもどってきて生命としてのまとまりを得ることができるのだ、と。
長谷川宏,『新しいヘーゲル』,講談社現代新書,位置151

言葉として有名な「アウフヘーベン」は触れられていはいるが、詳細は語られない。「捨てつつもちあげる」という意味から推測すれば、弁証法との関わりで理解出来るかも知れない。

『精神現象学』も意識の成長物語として紹介される。学問に至る悪戦苦闘の旅、と。旅の最後に絶対知がくる。これは、弁証法と同じなのではないだろうか。そして後で説明されるように、理性がどこまで現実をとらえるか、ということとも一致している。

意識は現実の奥の奥まで認識できる

理性が現実をとらえるかを示すのは以下の一文で語られる。

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」ということばは、理性への信頼を語る究極のことばではないか、との思いを禁じえない。
長谷川宏,『新しいヘーゲル』,講談社現代新書,位置838

奥の奥まで認識できる、といいきるところに、現実の認識に対するヘーゲルの独自性がある。 この点でカントとは大きく異なる。カントは「ものそれ自体」を認識できない。

カントの『純粋理性批判』の内容が見通せたのと比べると、ヘーゲルの理性が具体的にどういったものだか見通せていない。『エンツュクロペディー(綜合哲学概説)』と『論理の学』の解説書をどれほど読んでも物足りないと書いているのだから、それが当然なのかもしれない。しかしながら、もう少し理解はしたい。

社会との関わり

意識と社会との関わりという点では、ギリシャ社会への言及が多い。 ギリシャ社会へのあこがれを持ちつつも、個人が自立することで、社会から離脱していくことが、ギリシャ社会から進んだ次の段階と捉えていた。 芸術は、作品をうみだしたその時代の共同体精神を体現しつつ美しくなければならないとも考えていたようで、ギリシャの彫刻への言及も興味深い。

最後は、ヘーゲル誕生の地で、なぜ反近代の思想であるナチズムが起こったのかを問題提起して結んでいる。

2022年12月14日水曜日

『異常 アノマリー』を読んでも異常さは感じられなかった。

エルヴェ・ル・テリエ著『異常 アノマリー』を読んだ。 しばらく前に新聞の書評で知って気になっていたのだけど、紀伊國屋書店で全面カバーされているのをみて、そこまでお勧めするならと読む気になった。最近の読書傾向とは少し違う、軽い気持ちで本を読みたいなと思っていたのも、後押しになったかな。

小説の形式と小説内で起こること

何人かの登場人物がそれぞれの人生を歩んでいる中で、共通の出来事を体験し、その後の人生が大きく変わってしまう、というのが話の大枠となる。

ある飛行機が嵐に見舞われ、嵐を抜けると三ヶ月経っている。

飛行機に乗っていた乗員乗客が、三ヶ月前の自分として現れる。まったく同じ時間を経験した自分が現れるのではない。三ヶ月間の時間のずれがあることで、登場人物たちに起こった、あるいは起こらなかったことが、それぞれ異なり、人生に影響を与えてゆく。わずか三ヶ月の違いであらわれる、運命のようなものを楽しむことが出来るか否かでこの小説への評価は変わってくるだろう。

必然性が足りていない

三ヶ月前の自分と現在の自分との間で、どのように折り合いをつけていくのか、というのが小説の後半部分の中心となる。三ヶ月の間に起きた、生と死、別れと誕生、やり直すことの出来ない事柄。 登場人物たちが、その組み合わせのために存在しているように思えてしまい、それ以上の存在理由が見いだせないな、というのが率直な感想だ。各登場人物の話が進んでいき、もう一度一点に集約する展開があれば、物語上の必然性をより感じることが出来るかもしれない。

展開してほしいのは

展開して欲しかったのは、この物語の核をなす、シミュレーション仮説だったのだと思う。

物語の中心となった飛行機以外にも、過去に別の飛行機もどうように三ヶ月後に現れたことが明示されている。そして乗客の命に関しては保証されていないように暗示されている。にも関わらず、最後の展開がなされると、設定としても腑に落ちない。

あまりハードSFになりすぎると、軽く読むという当初の目的からずれてしまうので、これで良かったのかもしれない。

2022年11月26日土曜日

『プラトン哲学への旅 エロースとは何者か』を読んで『饗宴』に参加した気分になる

納富信留著『プラトン哲学への旅 エロースとは何者か』を読んだ。プラトンの『饗宴』の舞台となった紀元前416年のアガトン邸の寝椅子に横たわり、『饗宴』への演説に参加することで『饗宴』とはどのような作品なのかが見えてくる。

時代背景が説明される

民主主義で統治されたアテナイには、プラトンが開設したアカデメイアがあり、『饗宴』で描かれるのは、ディオニュソス劇場での悲劇コンクールで優勝したアガトンの祝勝会での出来事となる。 一見民主主義が根ざした平和なアテナイではあるが、スパルタとのペロポネソス戦争は続いており、ポピュリスト政治家のアルキビアデスによってシチリア征服という破滅へと向かっていく直前という不安定な情勢の中にいる。 プラトンの『饗宴』を読んだだけでは、ここまでの時代背景は読み取れないのではなかろうか。

プラトンの哲学とは

引用されているソクラテスの発言は、カント哲学との類似を見ることができる。

「ディオティマよ。では、知を愛し求める者とは誰でしょう。知恵ある者でも無知な者でもないとしたら?」 「それは、子供にも明らかですよ。それらの両者の中間の者で、その中にはエロースもいるのです。」
『饗宴』203E-204B

イデアの観点では、美であるところのものそれ自体を認識しているので、「現象」と「ものそれ自体」を分けるカント哲学とは異なっている。

この世のもろもろの美しいものから出発して、かの美のために常に上昇していき、あたかも階段を用いるようにして、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、そして二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そしてさまざまな美しい肉体から人間の美しい営みへ、そして人間のさまざまな営みから美しい学びへ、そしてさまざまな学びから、他ならぬ かの 美そのものを対象とするこの学びへとたどり着き、最後に、まさに美であるところのものそれ自体を認識することになるでしょう。もしどこかにあるとすれば、人生のここにおいてこそ、人間にとってその生が生きるに値するものとなるのです。すなわち、美そのものを観照する時に。
『饗宴』211C-D

プラトンの他の著書『ポリティア』に出てくる洞窟の世界へ入り、そこでソクラテスと出会うなど、プラトンの哲学に関する説明もあるが、本書を読んでも全体像なかなか見えてこない。見えてこないのが当たり前なのかもしれない。 『饗宴』で登場した人物が、別の著作にも出てくることもあることを知れたので、機会があれば『饗宴』そのものもだが、他の著作も読んでみたい。

話は逸れるが

ディオニュソス劇場は2010年のギリシャ旅行で訪ねていた場所だったようだ。2400年前にアガトンの劇が演じられていたと知っていれば、観光にももう少し深みが出たかも知れない。よくあることなので、あとから知るのも良いかもしれない。

『アサシンクリードオデッセイ』は、紀元前430年のスパルタを舞台にしており、『饗宴』の登場人物も、ゲーム内に多く存在しているようだ。

2022年11月20日日曜日

『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』を読んだ。

御子柴義之著『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』を読んだ。

本書はカントの『純粋理性批判』を解説した本『プロレゴーメナ』を解説した本だ。『プロレゴーメナ』は『純粋理性批判』の無理解に対して、カント自身が書いた解説書だ。カント哲学の核心を知りたいのであれは、本人が書いている『プロレゴーメナ』を読めば良いではないかと思われると思うが、引用される『プロレゴーメナ』の文章を読めば、事前知識がなくては到底理解できないことがわかる。

流れを見失ったときはヒュームの警告へと戻る

読み始めてすぐわかるが、はじめは頻繁に現れる新たな概念をその都度理解して、置いていかれないようにするのが精一杯だ。話の流れを追えなくなったときは、ディヴィッド・ヒュームの警告へと立ち戻ってみるのが良いようだ。

さて、ヒュームの所説の中でたいへん有名なものの一つに次の主張がある。原因と結果における必然性は、Aタイプの出来事の知覚とBタイプの出来事の知覚とが恒常的に連接することによって心に、経験に依存して(ア・ポステリオリに)生み出される習慣に過ぎないという主張である。
御子柴義之著,『カント哲学の核心』,NHK BOOKS,2018,位置:426

なぜなら、このヒュームの警告に対して、「ア・プリオリな総合的判断はいかにして可能か」という問が生まれているからだ。

なぜ純粋数学/純粋自然科学からはじまるのか

概念、直観、純粋直観、感性、悟性と概念はさらに複雑さを増してくる。それぞれの概念を理解するのがやっとで、純粋数学と純粋自然科学の話が出てくる必然性が見えにくい。

それらを話題にしているのは、以下の点を説明するためなのではないかと理解した。 純粋数学での要点は、対象とア・プリオリに出会うために、「現象」と「ものそれ自体」に分けることだろう。「ものそれ自体」と出会うのであれば、ア・ポステリオリで経験的に過ぎない。 純粋自然科学での要点は、直観を概念に包摂することで経験判断をする、そのために純粋悟性概念が必要なことだろう。

たとえば、三月末に校庭で美しい花を咲かせている樹木を見て(直観し)、それを桜という概念の下に置くことで、〈今年も桜が咲いている〉という判断が下される。
御子柴義之著,『カント哲学の核心』,NHK BOOKS,2018,位置:1562

そして、判断を下す、量、質、関係、様相をもつ純粋悟性概念の表を提示する。 これにより、認識の増大を伴う判断である総合判断をア・プリオリに可能ということになる。

以上のように、経験一般を分析することによって、カントは「意識一般」を取りだし、そこで純粋悟性概念がア・プリオリに知覚を結合することで客観的な経験判断が可能になることを明らかにしたのである。
御子柴義之著,『カント哲学の核心』,NHK BOOKS,2018,位置:1590

いかにして形而上学一般は可能か

ここからは理性の話となる。

悟性は感官においてもたらされた直観を概念に包摂することで判断を下すが、理性は直観なしに判断を下し、理念を導出する。理念とは、心理学的理念、宇宙論的理念、心理学的理念からなり、絶対的全体、経験可能な領域を超えた概念である。 理性は<知らないこと>と<知っていること>の「関係」を類推に従って考える。が、直観を欠いているので、客観に妥当する判断を下すことはない。 <知らないこと>と<知っていること>の、「境界」を見定めることが、理性によって世界を考える態度、ということになるのだろう。

どんなものが理性なのかはなんとなく、理解している気がするが、なにか腑に落ちない点がある。「以上で形而上学は可能である」という意見をうまく飲み込めていないのだ。

もう少し考えてみようと思う。

「ものそれ自体」と「現象」。純粋悟性概念と純粋理性概念。とにかく、面白く、数多くの概念が登場し、読めば、今まで自分はどのように生きていたのか、改めて振り返ってみることになる。そして、これからの生き方に影響を与えることは間違いない。

2022年2月27日日曜日

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と、私に共通するものは

私は資本主義を信仰しているのか

世界史リブレットの『中世の異端者たち』と『宗教改革とその時代』を読み、今までキリスト教とひとまとめに考えていたが、カトリック、プロテスタントとその他にもさまざまな異端があることを知った。『中世の異端者たち』で扱われている異端にいたっては、信じることが違うだけで火刑に処せられている。中には、すでに埋葬されてていたにもかかわらず、遺体を掘り起こされ焼かれているものまでいる。にわかには信じられない話だ。

それらを読んだことで、今、現代を生きている我々とはまったく違う考えを持ちながら生きていた人々がいたことに思い至った。と、同時に今私が信じて疑わない行き方も、生き方の一つでしかないことに気付かされた。

今、私が信じていること、それは資本主義だ。

つまり、私は生まれながらに資本主義を信仰しているということになる。無宗教だと思っていたわけだが、考える根底には資本主義があったはずである。では、あったとして、資本主義から要請される行動とはなにか。それを知りたくて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み始めた。

プロテスタンティズムの要点とは

私はキリスト教徒ではないため、ほんとうのところはわからないが、キリストとともに復活するのがキリスト教徒の望みだと思われる。この望み、つまり救いが到来するのは、カトリックであれば客観的な力の働きによるもので、自己の価値によるものではない。カトリックでは悔い改めることで、神の恩恵を得られた。

だが、カルヴィニズムでは違う。恩恵を得られるかどうかは神の決断により決まっており、信仰や善行でその決定に干渉し予定を変更することはできない。つまり、いつまでも救いの確証が得られない。そのことから、救いへの干渉はできないものの、絶え間ない禁欲が求められるようになる。

禁欲とは、何かを我慢するのではなく、ある目的のためにすべてを投げうって取り組む能動的な行動を指している。カトリックでは修道院などの世俗の外で行われる、世俗外禁欲であったの対し、ルターによって形を変えてゆく。世俗の中で行われる世俗内禁欲へと発展し、天職倫理へとつながっていく。ここに至って、怠惰や快楽を求める場合以外の営利を求めることが開放され、また消費することは良しとしないことから、資本が形成されていくことなるという説明が続いてゆく。

では、プロテスタントと私にある共通点とは

プロテスタンティズムと私に共通するものは天職倫理だ。 何かを一途に取り組めばある程度なにかを成し遂げることができる、という考えを私は持っている。そしてその考えを人生全体に押し広げて生きている節がある。当たり前のように思って生きてきたが、どうやらそうではないようだ。勘違いしてはいけないが、この考え方がプロテスタントや資本主義から来ているということではない。あくまで似ている、というだけだ。

日本的な表現をすれば、何かをやるときにその道を極めようとするのは、普通のことではなく、ひとつの態度に過ぎない。

それはほかでもなく、宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ、ということだ。しかも従来の形態による宗教の支配がきわめて楽な、当時の実際生活ではほとんど気付かれないほどの、多くの場合にほとんど形式に過ぎないものだったのに反して、新しくもたらされたものは、およそ考えうるかぎり家庭生活と公的生活の全体にわたっておそろしくきびしく、また厄介な規律を要求するものだったのだ。
マックス・ヴェーバー著,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,岩波書店,2012,位置:198

重要なのは気づいたことだ。

別の場所、別の時代に生きていたら、別の考え方で生きていただろう。

この規律の外へ出ることは出来るだろうか。

2022年2月9日水曜日

『うしろめたさの人類学』を読んで

人類学とはなんだろう

『うしろめたさの人類学』を読んだ。人類学についての本を読むことが初めてなので、人類学とはどんなものなのかも曖昧だ。

多くの人類学者は、世界の片隅で起きている小さな出来事に立ち会って、その場所から世界の成り立ちを理解することに情熱を傾けてきた。
松村圭一郎著,『うしろめたさの人類学』,ミシマ社,2017,93頁
これが人類学の定義というわけではないだろうけど、人類学が何をしているのかは説明してくれている。世界の成り立ちを理解しようとしているのだ。そして『うしろめたさの人類学』では、エチオピアと日本というそれぞれの世界の片隅で起きている出来事から世界の成り立ちを理解しようとしている。

うしろめたさは人類学とどう関わってくるのか

エチオピアでの滞在の内容を読む限り、経済的には日本のほうがかなり恵まれているようだ。だが、弱者へ手を差し伸べる機会は、圧倒的な豊かさを前提にしても日本よりもエチオピアのほうが多い、という点が考えるきっかけとなっている。手を差し伸べる頻度の違いを、商品交換と贈与の話をもとに考えた上で、今いる環境の中で行動を変える手段として「うしろめたさ」を提案している、ということだろう。

今の社会制度をすぐに大きく変えることはできない。その中で、各人が出来ることとして、「うしろめたさ」を変化するための足がかりとしたのは、個人が行動を変えることで社会全体を変えることが出来るということを示すためだろう。なんの後ろ盾もない「うしろめたさ」という感情を起点として社会を変えていく。人々の関係の中で作られた社会だからこそ、人々が自律的に変われば社会も変わるということなのだろう。

市場や国家という制度によって分断され、覆い隠されているつながりを、その線の引き方をずらすことで、再発見すること。そしれそこに自律的な社会をつくりだすこと。それがこの本でたどりついたひとつの結論かもしれない。
松村圭一郎著,『うしろめたさの人類学』,ミシマ社,2017,185頁
ここでたどりついている結論が、著者の主張している「構築人類学」そのものということになるだろう。

構築人類学とは

いまここにある現象やモノがなにかに構築されている。だとしたら、ぼくらはそれをもう一度、いまとは違う別の姿につくりかえることができる。(略)。その希望が「構築人類学」の鍵となる。
松村圭一郎著,『うしろめたさの人類学』,ミシマ社,2017,17頁

「構築人類学」は、現状を分析するだけではなく、「うしろめたさ」などの社会を変えるための手段を見極めて、社会をより良く変えていくことを目的としているようだ。 だから、誰にもでもわかる「うしろめたさ」を変化の起点としなければならなかったのだろう。

2022年1月22日土曜日

菅平高原スノーリゾートに行ってきた。

大雪の中スキー場へ

長野県も新型コロナウィルスの感染者が増えてきているが、長野県民割によるリフト券が半額になるということもあり、誘われて菅平高原スノーリゾートへ行くことになった。事前に日程を決めたが、大雪の予報となってしまった。スキー場は上田市へ抜ける道の途中にあり、何度も通ったことがある。山深くカーブが続く道だと知っているので大雪の日に通りたい道ではない。あまり雪が降るようであれば日を改めても良いかと思っていた。

当日は予報通り朝から雪が降り始め、このまま降り続けると帰りの道は大丈夫なのかも心配だ。それ以前に行くまでの道のりすら心配なほどの雪の降りだ。妻は強く降り出した雪をみて急遽不参加となった。不安な気持ちで集合場所へつくと、地元出身の主催者は中止の気持ちはまったくないようだ。地元の人が大丈夫と言うのだから大丈夫だろうと、雪道をスキー場へと向かった。

複数の山をまたいだゲレンデ

あまりの大雪だったので、菅平についてすぐの菅平サンホテル横の駐車場に車を停めた。駐車場からすぐ近くにレンタルスキーやスキースクールの申込場所があり、リフト券売り場も目の前にある。リフト券を買ってすぐに乗れるリフトもあった。便利だ。

スキー板をレンタルして最寄りのステージ3リフトで、太郎山を登っていく。登った先は太郎山山頂付近で、山頂から放射状にいくつものゲレンデがあり、ゲレンデの下からはまた山頂へ登るリフトが動いている。少し急な斜面の中級者コースのゲレンデであれば、迂回して滑れるように林間コースも併設されているところが多く、林間コース好きには嬉しい。コース図では林間コースを滑って隣のゲレンデに行けるように描かれているのに、実際は整備されていないコースもあった。どのリフトに乗っても太郎山山頂につくので、それがわかっていれば好きなコースに戻れるので問題ないだろう。

太郎山のコースですらすべてを滑れていないのに、連絡通路を使えば根子岳のゲレンデへも行けてしまう。太郎山にくらべて根子岳のゲレンデは幅が広くなだらかで初心者にも滑りやすい。この日は太郎山と根子岳で疲れ切ってしまって行けなかったが、車で移動をすれば、つばくろ山と大松山のゲレンデを滑ることも出来る。つまり、太郎山、根子岳、つばくろ山、大松山の計4つの山を滑ることができるのだ。

本場のパキスタンカレー

ゲレンデの食事は期待しないようにしているのだが、この日はパキスタン料理が食べれたら嬉しいなと思っていた。菅平高原ではパキスタンカレーフェアが開催されていたことを知っていたからなのだが、今回は人と来ているのでその時の流れで食事場所が決まるだろうと半分あきらめていた。駐車した菅平サンホテルに併設されたレストランWingに入ると、パキスタン料理らしいメニューが張り出されている。カレーよりは食べたことのないものにしようと、ティカロールとタンドリーチキンを頼んだ。

食券を渡す受付の女性は外国の方で期待が高まる。奥の厨房にはナンを焼くためのタンドール窯があり、窯の内側にナンの生地を貼り付けて焼き上げている。ティカロールも焼き立てのナンで提供された。スパイスで味付けされたチキンと千切りの野菜がナンで包まれている。手で持って食べやすいようにと、紙でくるまれているのだが、その紙はポップコーン用のものらしく大きくポップコーンと書かれている。それを気にせず、ティカロールに使ってしまうあたりが、本場パキスタン料理という感じがとてもでていて嬉しくなってしまった。