2022年2月27日日曜日

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と、私に共通するものは

私は資本主義を信仰しているのか

世界史リブレットの『中世の異端者たち』と『宗教改革とその時代』を読み、今までキリスト教とひとまとめに考えていたが、カトリック、プロテスタントとその他にもさまざまな異端があることを知った。『中世の異端者たち』で扱われている異端にいたっては、信じることが違うだけで火刑に処せられている。中には、すでに埋葬されてていたにもかかわらず、遺体を掘り起こされ焼かれているものまでいる。にわかには信じられない話だ。

それらを読んだことで、今、現代を生きている我々とはまったく違う考えを持ちながら生きていた人々がいたことに思い至った。と、同時に今私が信じて疑わない行き方も、生き方の一つでしかないことに気付かされた。

今、私が信じていること、それは資本主義だ。

つまり、私は生まれながらに資本主義を信仰しているということになる。無宗教だと思っていたわけだが、考える根底には資本主義があったはずである。では、あったとして、資本主義から要請される行動とはなにか。それを知りたくて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み始めた。

プロテスタンティズムの要点とは

私はキリスト教徒ではないため、ほんとうのところはわからないが、キリストとともに復活するのがキリスト教徒の望みだと思われる。この望み、つまり救いが到来するのは、カトリックであれば客観的な力の働きによるもので、自己の価値によるものではない。カトリックでは悔い改めることで、神の恩恵を得られた。

だが、カルヴィニズムでは違う。恩恵を得られるかどうかは神の決断により決まっており、信仰や善行でその決定に干渉し予定を変更することはできない。つまり、いつまでも救いの確証が得られない。そのことから、救いへの干渉はできないものの、絶え間ない禁欲が求められるようになる。

禁欲とは、何かを我慢するのではなく、ある目的のためにすべてを投げうって取り組む能動的な行動を指している。カトリックでは修道院などの世俗の外で行われる、世俗外禁欲であったの対し、ルターによって形を変えてゆく。世俗の中で行われる世俗内禁欲へと発展し、天職倫理へとつながっていく。ここに至って、怠惰や快楽を求める場合以外の営利を求めることが開放され、また消費することは良しとしないことから、資本が形成されていくことなるという説明が続いてゆく。

では、プロテスタントと私にある共通点とは

プロテスタンティズムと私に共通するものは天職倫理だ。 何かを一途に取り組めばある程度なにかを成し遂げることができる、という考えを私は持っている。そしてその考えを人生全体に押し広げて生きている節がある。当たり前のように思って生きてきたが、どうやらそうではないようだ。勘違いしてはいけないが、この考え方がプロテスタントや資本主義から来ているということではない。あくまで似ている、というだけだ。

日本的な表現をすれば、何かをやるときにその道を極めようとするのは、普通のことではなく、ひとつの態度に過ぎない。

それはほかでもなく、宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ、ということだ。しかも従来の形態による宗教の支配がきわめて楽な、当時の実際生活ではほとんど気付かれないほどの、多くの場合にほとんど形式に過ぎないものだったのに反して、新しくもたらされたものは、およそ考えうるかぎり家庭生活と公的生活の全体にわたっておそろしくきびしく、また厄介な規律を要求するものだったのだ。
マックス・ヴェーバー著,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,岩波書店,2012,位置:198

重要なのは気づいたことだ。

別の場所、別の時代に生きていたら、別の考え方で生きていただろう。

この規律の外へ出ることは出来るだろうか。

2022年2月9日水曜日

『うしろめたさの人類学』を読んで

人類学とはなんだろう

『うしろめたさの人類学』を読んだ。人類学についての本を読むことが初めてなので、人類学とはどんなものなのかも曖昧だ。

多くの人類学者は、世界の片隅で起きている小さな出来事に立ち会って、その場所から世界の成り立ちを理解することに情熱を傾けてきた。
松村圭一郎著,『うしろめたさの人類学』,ミシマ社,2017,93頁
これが人類学の定義というわけではないだろうけど、人類学が何をしているのかは説明してくれている。世界の成り立ちを理解しようとしているのだ。そして『うしろめたさの人類学』では、エチオピアと日本というそれぞれの世界の片隅で起きている出来事から世界の成り立ちを理解しようとしている。

うしろめたさは人類学とどう関わってくるのか

エチオピアでの滞在の内容を読む限り、経済的には日本のほうがかなり恵まれているようだ。だが、弱者へ手を差し伸べる機会は、圧倒的な豊かさを前提にしても日本よりもエチオピアのほうが多い、という点が考えるきっかけとなっている。手を差し伸べる頻度の違いを、商品交換と贈与の話をもとに考えた上で、今いる環境の中で行動を変える手段として「うしろめたさ」を提案している、ということだろう。

今の社会制度をすぐに大きく変えることはできない。その中で、各人が出来ることとして、「うしろめたさ」を変化するための足がかりとしたのは、個人が行動を変えることで社会全体を変えることが出来るということを示すためだろう。なんの後ろ盾もない「うしろめたさ」という感情を起点として社会を変えていく。人々の関係の中で作られた社会だからこそ、人々が自律的に変われば社会も変わるということなのだろう。

市場や国家という制度によって分断され、覆い隠されているつながりを、その線の引き方をずらすことで、再発見すること。そしれそこに自律的な社会をつくりだすこと。それがこの本でたどりついたひとつの結論かもしれない。
松村圭一郎著,『うしろめたさの人類学』,ミシマ社,2017,185頁
ここでたどりついている結論が、著者の主張している「構築人類学」そのものということになるだろう。

構築人類学とは

いまここにある現象やモノがなにかに構築されている。だとしたら、ぼくらはそれをもう一度、いまとは違う別の姿につくりかえることができる。(略)。その希望が「構築人類学」の鍵となる。
松村圭一郎著,『うしろめたさの人類学』,ミシマ社,2017,17頁

「構築人類学」は、現状を分析するだけではなく、「うしろめたさ」などの社会を変えるための手段を見極めて、社会をより良く変えていくことを目的としているようだ。 だから、誰にもでもわかる「うしろめたさ」を変化の起点としなければならなかったのだろう。